小説
もうこの唇に触れるものはない
「…俺、家を出るよ」
そう、それは突然のことだった。私は手に持っていたマグカップを落とした。
「…ん、リンの聞き間違いかな?もっかい言って」
「だから、家を出る」
少し呆れたようにレンが再び言った。聞き間違いなんかじゃなかった。
「どうして…?」
なんでそんなこと言うの?いままで普通だったじゃない。喧嘩もしてないし不安もなかった。
なのに、なんで…
「…ごめん。言えない」
頭を下げるレン。やめてよ、これは嘘でしょ?悪い夢でしょ?それしか考えられない。
「…じゃあ、また、会えるよね…?」
震えた声で聞く。この質問は否定しないよね?これも否定したら、私…
「…わからない」
「え…」
ワカラナイ?じゃあ、あなたは何のために此処を出るの?それすらも教えてくれないの?
「…何よ、それ」
わけわかんない。家を出ていく?会えるかどうかわからない?自分勝手じゃない。
そんなの、はいそーですかって言うわけないじゃない。許すわけないじゃない。
「何で…どうしてっ…、リンの事、嫌いなの…?」
もう涙を堪えることなんかできない。だって、私の好きな人が私から離れるんだよ?もう、会えないかもしれないんだよ?
涙で視界が滲んできた。
「リンの事は好きだよ」
「だったら、どうしてっ!?」
レンの服を掴み怒り狂ったように言った。
「…好きだからだよ」
レンは寂しそうに答えた。わかんない。好きだったら傍に居るはずだよ。好きだったら、離れたりなんかしないよ。
「わかんない…わかんないよぉ…っ!!」
レンの胸を叩く。何度も何度も。わかんない、わかりたくもない。
しばらくしてレンは私を抱きしめた。
「ごめん、リン」
きつく、きつく、レンの腕に力が入る。嗚呼、このまま抱きしめていて。離さないで。全部、都合の良い夢だよね?
私の唇がレンの唇に触れた。そして舌を絡ませ合う。このまま時間が止まればいいのに。
なんて願いは叶わない。
「んっ…はぁ、」
離れた唇。二人の口から白い糸が伸びて、切れた。
レンは私をその場に座らせ、残酷な一言を放った。
「さよなら、…リン」
目の前で扉が閉まった。レンは家を出ていった。私はその場で大声を出して泣いた。
本当に、本当にもう会えないの?ねえ、神様。
「うっ…れん…れん、れんっ…」
私はもう帰って来ない愛おしい人の名前をひたすら呼び続けた。
もうこの唇に触れるものはない
この唇は、あなただけのものだから
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