例のいえかん





「官兵衛、家康くんと何かあった?」
「は!?」
今朝友人との旅行から帰って来た姉が朝食を兼ねた昼食を食べながら言った言葉に、小生は驚いてコーヒーのカップを落としかけた。慌ててしっかりとカップを持ち直す。
「なっ、何故そう思うんだ!?」
「何となく。違う?」
我が姉ながら、恐ろしい人だと思う。脳内をフル回転させ上手い言い訳を考える。
「良かったら家康くんの分の旅行のお土産、家に取りに来てもらうか官兵衛に届けに行ってもらおうと思ったんだけど、何かあったなら私が届けに…」
「いやあの!何て言うんだ、その、ちょっと、喧嘩染みた事を、だな……」
「喧嘩?家康くんと?」
姉の目が軽く見開かれる。そりゃ大層驚くだろう。実際、小生と権現は喧嘩などしてはいなかった。ただ、あの日から一度も顔を合わせていないだけなのだ。あの、権現の家に泊まった日から。
あの日の夜、二人で窓から覗く夜空を見ながら他愛の無い話をしていた。その後、権現が小生と一緒に寝たいと言い出したので渋々小生は権現の部屋のソファで寝ようとしたのだが、権現は『一緒に』寝たいと言ったのだ。つまり、二人で、権現のベッドで。
両親の部屋や客室が在るのでは、同じ部屋で寝るなら一緒にベッドで寝る必要は無いのでは。数々の言葉による抵抗が権現に伝わる事は無く、結局小生は権現とベッドで寝る事になったのだった。
背中から腕を回し、小生を抱き枕の様にしてすやすやと安心した様子で眠る権現。小生は、一睡も出来なかった。
翌朝、何冊か本を借りて権現の家を後にした。それから連絡を取っていない。お互い元から特に用が無ければ連絡を取るような性格でも無かったのでそれはいつもの事だった。きっとこんな気まずさを感じているのは小生だけなのだろう。
「じゃあ、やっぱり官兵衛に渡してもらおうかな。」
「へ?」
「仲直り。して来たら?」
そう言って鞄の中から包み紙で包装された箱を差し出される。姉の眩しい笑顔が痛い。箱を受け取り、困ったように眉を下げ、ありがとう、と呟いた。




「官兵衛!久しぶりだな。」
玄関の扉を開いた権現の表情は、眩しい程の笑顔だった。入ってくれ、と身体を避けて小生を中に招き入れる権現。ああ、と返事をして、玄関へと足を踏み入れた。
「今日はどうしたんだ?いきなり訪ねて来るなんて珍しいな。」
リビングへと通され示された椅子に腰を下ろすと、目の前のテーブルに麦茶と氷の入った硝子のコップが置かれた。テーブルを挟んで向かいの椅子に権現も腰を下ろす。ワシは会えて嬉しいが、とはにかんで笑みを浮かべる権現。
「いや、姉が友人と旅行に行ったんで、その土産を持って来たんだ。」
あまりその表情を目に映さないようにしながら鞄から土産の入った箱を取り出す。
「旅行?そうか、それはわざわざすまなかったな。言ってくれたら家まで受け取りに行ったのに」
権現が箱を手に取り優しく微笑む。そういえば箱の中身は何なんだろうか。大きさと重さからして菓子か何かだろうか。そもそも姉は何処に旅行に行っていたのだろう。そこで最近ほとんど姉とまともに会話をしていなかったことに気付く。
「……仲直りを、して来いと言われたんだ。」
「ん?」
箱に向けられていた視線が小生の顔へと移る。その瞳には、疑問の色が浮かんでいた。
「…小生と権現が、喧嘩か何かをしていると思ったらしい、」
「何故だ?」
「……し、」
小生が、お前さんのことが話題になる度に、気まずそうにしていたからだ。
言ってしまった。手が震える。汗が吹き出す。俯く。長い前髪が目の前の男の姿を隠す。

動けない。

「……そうか。それは、何故なんだ?」
ゆっくりと顔を上げると、権現は、真っ直ぐに小生の瞳を見つめていた。(怒ってない、)
は、は、と犬の様に荒い呼吸が口から溢れる。もう、今の言葉を無かったことには出来ない。今ならまだ戻れるのだろうか。昔の二人に。気の合う友人だった二人に。
「…今の関係が、酷く後ろめたい。姉の傍に居ても、罪悪感で胸が一杯で、まともに話も出来ない。権現と一緒に居ても、」
昔に戻りたいと思ってしまう。
「……今の関係が、辛い。」
権現の目から、一瞬たりとも視線を外さずに言葉を放つ。権現の瞳からは、怒りも哀しみも何も感じられず、ただ小生の姿を鏡の様に映していた。
沈黙。権現は何も言葉を返さず、小生もこれ以上何も話さない。どれくらい時間が経ったのか分からない。視線を合わせ続けているのを小生が苦に感じ始め、逸らそうとした瞬間、官兵衛、と名を呼ばれた。
「……何だ、」
「好きだ、」
「っ、」
「官兵衛を、抱きたい」
顔に熱が集まり、かっと脳が熱くなった。俯き視線を逸らす。脳裏に残った権現の顔は、真剣そのものだった。
「何を、言って、」
「官兵衛、ワシは、今ならまだ、あの頃のワシらに戻れると思う。まだ、一線は越えていない。」
「……」
「けれど、ワシは戻りたくない。官兵衛が欲しい。戻ることの出来ない場所まで、官兵衛を連れて行きたい。」
堪らず左肘をテーブルに付き前髪をぐしゃりと握る。静かに伸ばされた権現の左手が小生の右手にそっと触れた時、びくんと身体が跳ね椅子から飛び上がってしまった。一瞬、目を丸くして此方を見上げた権現が、まるで幼い子供のように見えた。
「っあ、」
「……良いんだ。嫌なら、拒絶してくれ。逃げてくれ。ワシは、追い掛けない。諦める。官兵衛、これが、」
最後のチャンスだ。そう言って権現が笑う。眉を下げ、少し困ったように、くしゃり、と。笑っている筈のその顔が、今にも泣き出しそうに見えた。
「……」
「……ただ、」
「……?」
「……少しでも、ほんの少しでも良い。もし、官兵衛が、ワシのことを、ほんの少しでも、好いて、くれているなら……!」
そう言うと権現はぐしゃりと前髪を掴み眉間に深い皺を寄せた。ぎゅっと閉じられた瞼に押し出された雫が、権現の頬を静かに伝う。
行かないでくれ。
ぽつり、と権現の口から零れた消えてしまいそうな程小さな声。髪を掴む右手が、力の籠った左手が、全身が、震えている。それは、
「…ずるい、それは、ずるいぞ、権現、お前さんは、本当に、ずるい……!」
権現の左手に触れようと自分の右手を伸ばす。小生の手も、震えていた。馬鹿だ。権現も小生も、誰も彼も皆大馬鹿野郎だ!





正直、それからのことはよく覚えていない。
気付けば身体はシーツと権現に包まれ、尻と下腹部が尋常じゃない程痛くて、それなのに権現の表情を見ると、何故か胸の奥の奥が圧迫されたように苦しくなった。このまま心臓が弾けて、死んでしまうんじゃないかと思った。それでも、良いと思った。
権現の顔をじっと見つめていると、不意に視線がぶつかった。汗だくの顔で、眉を下げ、へらりと嬉しそうに笑う権現。ああ、くそ、負けだ。小生の負けだ。駄目だ。くそ。
好きだ、と思ってしまった。
「…官兵衛、好きだ」
ああ、もう、どうしようもない。





“泥のように眠る”と言うが、このまま眠り続けたならそれこそ泥のようにいつの間にか消えることが出来ないだろうか。目が覚めて一番最初に思ったことだった。いやしかし、“泥のように眠る”の“泥”は濡れた土の事ではないと昔誰かが言っていた気がする。
「…こんな事を考えている時点で立派な現実逃避だな。」
小さな声で呟き、そっと首を左に倒す。権現が、小生と同じ布団にくるまり規則正しい寝息をたてていた。そこで自分の身体の重さに気付き、一先ずシャワーを借りようと権現を起こさないよう静かにベッドから抜け出した。
シャワーを浴び頭にタオルを被ったまま部屋に戻ると、目を覚ましたらしい権現が上半身を起こしていた。
「おはよう、権現」
声を掛けると、権現がばっと小生の方を振り向いた。迷子になっていた子供が親を見つけた時のような不安と希望がぐちゃぐちゃになった表情に、思わず吹き出してしまう。ベッドに近付き腰を下ろす。ぎし、とスプリングが小さく悲鳴をあげた。
「……おはよう、官兵衛。良かった、何処かに、行ってしまったのかと……」
そう言って苦笑いを浮かべる権現を見て、ふっと笑みを零す。そうだ、まだ、伝えていなかった。
「権現、」
「何だ?」
「…好きだ。」
権現の瞳をしっかりと見つめて告げると、権現の黒い瞳が一瞬揺れて、さっと色褪せて行くのが分かった。漸く小生を見つめていた瞳が、再び小生を映すだけの鏡に戻る。
「権現?」
小生が名を呼ぶと、糸を切ったようにぼろぼろと権現の目から涙が零れた。震える唇が何度も何度も謝罪の言葉を紡ぐ。濡れた小生の髪から、ぽたりと冷えた雫が落ちた。











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あきゅろす。
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