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いのり

 ぽつり、水滴が額を掠めた。まいったなとは思うも、時すでに遅い。傘を持たない僕のはるか上空にそびえる雲から、あっという間に大粒の雨が降り始める。雨は危険だ。降り続ければ、世界が沈む。だから足早に屋内へ――いや、地下に入ったほうが適当だろうか。しばらくは雨に打たれながら迷い、結局、僕はこのまま枯れた町を歩き続けようと決める。
 雨音が世界を満たしていた。割れかけのアスファルトの隙間から、次々と水が溢れ出てくる。降る水が多すぎるためか、あるいは水の成分がおかしいのか、水を受ける肌があちこち痛む。このぶんでは地下もそう安全とは言えまい。ましてやひび割れた屋内にいれば建物の倒壊に巻き込まれて死ぬだろう。
 被害を受けにくそうな、高台で、且つ建物の密集していない場所を目指し歩いた。膝下が水に埋もれる頃にはようやく良さそうな場所を見つけて、一息つく。
「寒いですねえ」
 声がして、飛び上がって驚いた。こんな町にまだ人がいたとは。見やれば、なにやら大きなビニールシートのようなものを傘代わりに被り、こちらに笑顔を向けているやせ細った人間の姿がある。このシートのせいで人影が隠れ、気がつけなかったらしい。そんな僕のあまりの驚きように、声の主は小さく声をあげて笑った。性別も年齢もよくわからない人間だった。声ははっきりとしているから老けてはいないのだろうが、この時世で身体の大きさから性別や歳を判断することは難しい。皆が皆、同じように小さいからだ。食料は昔のように供給などされないから。
 ひとしきり笑ったその人に、そうですね、こんにちは、と当たり障りなく返すと、彼――彼女かもしれないのだが便宜上そう呼ぼう――は思い出したようにこんにちはと返してきた。人と挨拶をするなど永らくなかったためだろう。彼は、気さくにすみませんと口すさみながら、傘下の余った空間を僕に進めてくれた。僕はこれが罠かどうかを何秒かは考えて、毒やも知れぬ雨に打たれ続けるよりはましかと思い直し、ありがたく好意に甘えることにする。
 急に水の弾幕から抜け出すと、びりびりとした感覚が残る。そうして古びたビニールシートを両手で持ち上げる僕らは、端から見れば少しばかり滑稽だろうか。端から見るものなどいないのだが。
「この国は水没かなあ」
 隣から、能天気にさえ思える間延びした呟きが耳を打った。
「どうでしょう。爆弾で焼き払われるのかもしれないし」
「そんなのもありましたねえ。他のは、なんでしたっけ?」
「国まるごと凍ったっていうのも聞いたことがありますよ」
「そこまでくると、都市伝説レベルですねえ」
 つらつらと、言葉を交わした。
 何年も前の話だ。
 一国が滅んでしまうほど規模の大きな天変地異が各地で立て続けに起こり、世界は混乱した。きわめて少なくなった資源を奪い合い戦争が巻き起こり、情報が錯綜し、周辺国の混乱を何一つ知らされないまま攻め入られた国さえあったのだという。だが、今になって思えば、混乱できた僕らはよほど幸運だった。混乱するいとまもなく、いったい何億の人が死に絶えただろう。実際に廃れた後の世界に生きているはずの僕にも一向に実感は湧かない。ただ、いま都を歩き回っても、ほとんど誰とも顔を合わせることはない、それだけが真実だった。
「都市伝説といえば、こんな話を知ってます?」
 彼が、久々の会話を心底楽しんでいる様子で尋ねた。どんな話ですか。雨が止むまでは暇がある。僕は話に乗ることにする。
「滅びはもうずっと予測されていた」
「……聞いたことありません。だいたい、予測したのに公表しないなんて」
「馬鹿らしくって誰も信じないから公表しなかったんですよ。それがまあ都市伝説的で、笑っちゃうんです」
 彼が寒さに震える細腕でシートを持ち直した。
 雨粒とシートのぶつかるけたたましい音が、一瞬だけ僕の認識を支配した。
「“妄想は必ず破綻するから”」
「え?」
 それまでは明るく語っていた彼の口調が、急に冷めたものに変わる。思わず向き直ると、彼は再びからりと笑って、あなたってよく驚く人なんですね、と軽口を叩く。そしてまた本題に戻る。
「この世界が妄想でないことを、誰が証明できますか? 夢と現をどうやって見分けるんですか? 精神世界の出来事は、本当に他愛ない幻想ですか?」
「……神はいるのか、幽霊はいるのかといった議論に似ていますね。信じる人にとっては事実で、信じない人にとっては馬鹿らしいものでしょう」
「そうなのかもしれませんねえ。私は信じちゃあいませんよ。だってぜんっぜん現実的じゃないんです。もしこの世界が誰かの見ている夢だとしたら、その誰かさんが夢から覚めたとき、世界はどうなるかっていう」
「へえ……」
 短く返して、僕は黙り込む。子供騙しのような話に頭を悩ますのは彼の言うとおり馬鹿らしかったのだ。だから、これ以上紡ぐ言葉はなく、ぼんやりと空を真っ黒に埋め尽くす雨雲を見上げた。彼もたいして盛り上がるつもりはないのか、僕につられて黙り、地を穿つ水の音に耳を傾ける。いくらかの沈黙が過り、雨足は次第に弱まってゆく。
「このぶんなら、雨、やみますかねえ」
「やんだらいいですね。そしてこの先も世界が安定すれば、もっといい」
 僕のぼやきに、彼はまたひとしきり笑って言った。ありえないですよ。この世界は、もう夢を見てくれる誰かから見放されてるんだと思います。冗談半分、皮肉半分といった彼の言動には恐れ入る。おそらく気が弱いのだろう僕は、何も言い返すことができなかった。
 もう少しのあいだ雨が過ぎるのを待って、ようやくビニールシートから潜り出る。さようなら。彼がおかしそうに告げたので、僕もそれに続いた。背を向けると、僕らを隔てるように雲間から天使の梯子が降りてきて、またもや後方から彼の笑い声が聞こえた。ひどく渇いた声音だった。
 街にはまだ冷ややかな雨水が至るところに残って、平たく言えば多くが浸水している。地下にいたはずの僅かな人達はどうなったかなど、確認するのも不毛だ。より高台へ臨もうと、ひた歩き、やがては息を切らして、日が暮れて、空腹に襲われ。そろそろ頃合いかと、近場に大きめのビルを探し、登る。
 僕はこの先、どんな夢も見ない。
 そう決めて地下を去ったのだ。きっとそれは彼も同じで、だからあの戯言が誰かの記憶に留め置かれることは過去にも未来にもないのだろう。理屈なんて今さらどうでもいい。覚めない夢はないのと同じように、生きるものはみんな死ぬ。この真理を覆せるものはいない。それだけのことなのだ。
 雨上がりの風は存外暖かく、それだけで心は清らかに凪ぐ。ビルの屋上には水の跡がおびただしく、気勢を削がれるが、見晴らしの良さがそれを帳消しにする。風の吹く向こう、崩れかけた町並みには、生まれてこのかた見たこともないほど荘厳たる七色の橋が、暮れゆく夕陽を背に渡されている。眺め入り、こんな美しい夢を抱いて眠れるのなら悔いはないと、空が赤いうちにいよいよ腹を決める。
 一歩、二歩、虹を目指して進むと、踏み出す足は空を切り、身体は自然と重力に従った。世界の理不尽な崩壊に刈り取られる前に、せめて自分の意思で。それができた僕は――こんなに美しい死に場所を得られた僕は間違いなく、幸せ者だ。

 願わくは、彼もあの虹に気がつけるように。

 すべてが夢でしかないのなら、存在することに意味はない。
 本当にそうか?
 僕の得た幸福が、誰にも届かず消えゆくことを、誰が証明できる。誰にもできないだろう。だから、僕は信じるのだ。この命がここにあったという“現実”を、誰かが覚えていてくれることを。




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