farewell
<scene-shift>
<time:farewell>
<side:Misu>
草を踏み分けていく。蒼いにおいが満ちて、虫の翅音と鳥のこえ、細いこもれびと茂みの闇に、冷やかに湿った空気を吸って吐く。ここはとても、いのちが濃い。
彼の呼吸が聴こえる。浅くて速い。
「……休憩しよう」
「はい」
旅をはじめてしばらくはわたしの方が体力が劣っていたが、このところドクターのほうが音を上げるのが早くなっている。食糧が減っているから。
狩りをしなくてはならなかった。緩衝地帯にはひとがいない。したがって対価を払って食事を提供してもらうこともまして横から奪い取ることもできない。すべて自力で食いつなぐ。悪いものに当たれば死ぬだろう。彼のいのちを繋ぎ止めているのはもはや「たぶん大丈夫なほうへ行ける」そんなあいまいな直感ひとつでしかなかった。それだって普通の人びとよりははるかに恵まれているが。
「弱ってきたね。ドクター」
「……」
「わけは、旅の疲れだけではないのだろうね」
どういう意味ですか。
この緩衝地帯に踏み出してすぐ、わたしが景色を探そうと言い出したとき、彼は当惑を隠さぬ調子でそう問い返したのだ。わたしは答えないまま受け流して旅を続けた。もう伝わったのだろうことを、いちいち言葉にするほどのいとまはないのだ。
当然だろう? ドクターは見てみぬふりをするのが得意なようだが、それにしてもわかっているだろう。わからなかったとしても、わたしの言葉に当惑を示したその瞬間に直感したはずだ。
翼のメンテナンスをずっとおこなえていない。
であれば、わたしにだって寿命がある。
「どうして……」
「うん?」
「どうして望んでくださらないのですか。……生きたいと、あなたが言うのなら、きっと叶えるのに」
憔悴して木の根に座り込んだ彼がうつむいたまま言葉をこぼした。わたしは宙を横切る見知らぬ小鳥に目をとられながらそれを聞いていた。もらった目はどんな高さでも遠さでもあざやかに景色を見せてくれるから素敵なのだ。小鳥はずっと高いところで木々のはざまへ消えていく。いとおしむ。視線を戻す。
「わたしの生きたかった理由なら、とうの昔に叶ったよ。君のお陰でね」
「……理由?」
「言葉にするものではない。ただ、うん。わたしは今が楽しいから。このまま君と流れてゆけたら、それがいいと思うよ」
赤子のように出逢うすべてが新しく輝いて、それなのに年老いた心は憂いをも慈しむから。わたしは永く脈々と流れゆくすべてのことが好きだった、運命とも人生とも旅路とも呼ぼう、君とゆく日々に出逢うすべてのことが。それならどうして別れを惜しむだろう? きっとこの先に美しい景色があると確信が胸に脈打つのに、どうして進まずにいられるだろう。
森のこえがしている。共鳴をして、耳について離れない旋律を鼻の奥で鳴らしてこもれびを仰ぐ。わたしはいたって上機嫌だ。彼だけが苦しげに、詰まったような息をする。
ぼろぼろになった彼の手を握る。身を寄せて目を閉じた。
ささやく。
「わたしのために後悔をしてくれるかい? ドクター」
類いまれな者としてこの世界に生まれ落ち、わたしに出逢ってしまったこと。信じたこと。恋をしたこと。そうしてひとを殺したこと。それでもと云ってわたしを遠く連れ出したこと。生きようとしたこと、花に笑み、空を見たこと。この旅に至ったあらゆる瞬間の、煌めきとくらやみのすべてのこと。
彼は後悔をするだろう。後悔をすることから、今、わたしの言葉によって逃げられなくなっただろう。
「どうしてそんなにうれしそうになさるのです」
ほら、わずかに濡れて掠れた声だ。見なくたってわかる。
「わかるときなら来る。君の力は全知に至る病だ。いつかすべてを知って、すべてを愛さずにはいられないときが来る。わたしにたどり着く日がね」
「それまで、私にだけ生きろと……?」
「好きにするといい。わたしのたわごとを君が聞きいれる義務はどこにもない。逃げても構わなければ、立ち向かったから特別に称えようとも思わない。君が、君の心で選べばいいんだ。わたしは、それだけでうれしいよ」
手が離れたかと思うと背中に回った。わたしを抱き締める腕は拍子抜けするほどやさしく、言い方を変えれば弱々しい。翼の付け根を忌々しげになぞられるとくすぐったくて笑ってしまう。
「年寄りの話は長くてちっともわかりません……」
「あはは! これくらいが精一杯の反抗? 君は優しいな。殺意くらいなら受け止める心づもりでいるが?」
「ご冗談を。もう少し人間らしくしてくださいよ。せっかく神殿から連れ出したのにこれでは浮かばれませんね」
「少女のわがままなら言い過ぎているくらいだろう?」
「足りません。この翼だって目だって私が造ったのに、」
たしかめるように翼をなぞる手が震えている。彼の方がわたしよりよほど詳しいのだろうこの翼は、彼にとっては罪の象徴だ。意志をともなってひとを殺したことの象徴。それでいて、それなのに、わたしを生かしきれぬというのだから、いのちを懸けたって目的を果たしきることはないというのだから、自然、忌々しいはずだった。
「あなたは遠いままだ」
耳元なのに聞き取りにくいほどのちいさなつぶやきがあった。
ふ、と口から笑いが漏れていく。たぶん翼をくすぐられているせいで。
「遠いのなら君が長生きをして追いつけと言っている。君ならここまでたやすく来てくれるだろう?」
「あなたも大概、私を信じすぎておいでですよ」
「神さまのなり損ないが本物を前にしているのだからね。……ところでそろそろ離していただいても?」
「却下で」
「これは困った」
そろそろ彼も落ち着いてきたので、休憩を終えて先へ進みたいのだが。
もうしばらく黙って翼を触らせていて、やがてどちらかともなく立ちあがり手を引きあって歩みだす。森の中は一ヶ所がいつまでも安全とは限らないのだ。ひとまず今、どちらへ向かえば安全か、彼の直感ばかりをあてにして足を進める。危険なことは、一度もなかった。
口ずさむ。歌はやがて伝播して、彼も時おり鼻の奥で奏でるようになった。森にひしめく生命のこえとともに響きわたってぐるぐると、新たな旋律になって返ってきたり、元に戻したりを繰り返す。音楽はいのちとの会話に近いようだった。言葉は要らない。光と、音と、生と死のにおいがしていた。
いのちを燃やして、歩いて、歩いた。
あるときふいに膝から力が抜けて、崩れ落ちそうになったところを彼に支えられた。森を歩いて何日目だろう、時間はもう数えることをやめていた。
ああそろそろか、とだけ思う。
ならば乞おう。
「ドクター。わたしに名前をくれないかい」
「二回目ですね。……どうして?」
「君の記憶のために」
少しだけ休んで、また歩く。足取りは心なしかより慎重になったが効果はないだろう。辿り着くべきところに、おとずれるべき死があるだけだ。
その日の晩、月も星も見えない深いくらやみのさなかで彼が泣いた。じぶんの膝を抱えて、限界まで声を殺して泣いていた。わたしは何も言わずに目を閉じているだけだった。
「では、――翠、と」
あらかじめ考えていたのだろう、名を乞う問いへの回答はすばやかった。彼の母国語でグリーンを意味する文字をあてて、みす、と読ませるらしい。二百年の閉塞をともにした水のいろ。
「みす。……うん、それがわたしだ。そんな気がする」
「よかった。お気に召したようで」
安堵を浮かべた彼の手をふいに離して、数歩先へ駆ける。かすかに木々の天蓋がひらけて、陽のたまっている地点があった。ちいさなちいさなステージ、観客はこの森に生きるあまねくもの。神さまにさずかった白い翼を、魅せるようにひろげて、こもれびのもとで。できるだけ美しく。わたしは振り向いて、微笑う。
「――憶えておいて。感情を忘れても、名前だけは、残るから」
直後に、わたしは倒れた。
そのちいさなステージこそ、きっとわたしが彼に求めた景色だったのだろうなと、ぼうとする頭で思う。
<side:Koya>
死も美しさとあなたは言った。
頷いてしまいたくはなかった。
そもそも、美しいからなんだと言うのだろう。
言葉はない。
涙なら、少しだけ。
森のこえがしていた。
耳慣れた旋律が頭の内側で鳴り止まない。
翼に耳を当てた。あるべき稼働音はすっかり止んでもうどこにもないようだった。次に脈をとる。まだ、いのちはある。意識も、かすかに。
あなたの顔を見る。二百年も日光を浴びていないからまっ白な肌をした、あどけない少女の顔だ。英知の蓄積によって永らく変わらぬよう保存されてきた顔だ。度重なる実験の反動によってよくは見えないらしい眼が少し迷って私に焦点を合わせる。口許がほころんでいってなにかを言うべく息を吸う。そのすべてがゆっくりとして見えた。間違いなく死の間際のしぐさで。
さよなら。
声は出ていなかった。唇がそう動いただけで。どうしてそれだけが、こんなに美しいのだろう。美しいからなんだと言うのだろう。私にはまだわからない。わかるときが来るとあなたは言ったけれど、来なくたっていいとだけ思う。わからなくたって別によかった。宙に小鳥が過り、陽射しに花が咲いて、草の下に眠るいのちがあって、風が吹いて、私が浅い呼吸をする。歌が聴こえる。私はその巨大な旋律の一部だ。それでよかった。それがよかった。そんなことに、気がついて、呼ぶ。
「みす」
この身を焦がす美しさの名前だった。
口にすれば溶けていって、遠く、歌が応えた。
<call-sounds: >
▲ ▼