journey <scene-shift> <time:Journey> <side:Koya> 「昔のことはもう忘れてしまったんだ」 だからすべてが初めてで、はしゃいでしまって……まるで赤子のようだろう? あなたはそう言って恥ずかしそうに笑った。 壁を越えた。特に後ろめたい逃亡のあれやこれやをすることはなく、正規の方法で、である。具体的に言えば申告書を持って専用の施設へ行き異能を証明して渡された通行許可の三次元バーコードで壁の関所を通過した。それら手続きはいっさい滞りなく済んだのだからおどろく。両親にも一通だけ別れのメッセージを入れた。とうに疎遠だったので返信は来なかったが気にしない。 「わたしは無能力だが。いっしょに外へ行けるのだろうか」 「不老不死はじゅうぶん異能のうちと判断されうるかと」 「百パーセント科学なのだが」 「誰も信じませんよ」 「ふふ。そうか。君が言うのなら、きっとそうだ」 旅支度を整えるまでには数週間をかけたのだけど、そのあいだラボラトリー関係の追っ手どころかメールの一件もついぞ来ることがなく。あのとき私の放った思念体が、どうやらいまだに力を受けた者たちのなかに息づいているらしいとわかった。この強すぎる力の使い方を少し考えなければならないと思う。遠くへ旅をするのならきっと世話になる。神さまにはなりたくないけれど。 「しかし君といると安心するなドクター。もうどこのデータベースにもアクセスできない、今のわたしは無知だが、それでもきっともう間違いはないとわかるから」 ……あなたの神さまになら、なってもいい。 追っ手が来ないらしいとわかると、あなたは翼を隠すこともなく堂々と町を歩いた。翼について声をかけられれば惜しげもなく見せびらかしてきれいなパーツだろうと笑うから、うらやましがる奥方などもあらわれた始末だ。製造所を問われれば知人の職人に特注で頼んだと答えていた。なにひとつ嘘ではない。 関所へ向かう道中はゆっくりと、たくさんの寄り道をした。安穏の町を最後に散策する機会だ、私とて感慨深いものはあったが、やはりあなたが物珍しげに目を輝かせるからそればかりに意識をとられてしまった。それでいい。それがよかった。 「ドクター! ラボで見たのと同じ花だ!」 「ええ……きれいですね」 「緩衝地帯ではもっとさまざまにいきものが見られるのだろうね。楽しみだ」 そうして、旅が始まる。 壁向こうへ送り出される者たちは理不尽なことに数十マイルの緩衝地帯を自力で越えなくてはならない。一本道を歩くだけとはいえかなりの健脚でなければ一日で越えられるものではないから、夜営のための大きな荷物を背にして行く。 関所を越えるととたんに景色は一転、左右を広大な草原に挟まれた砂利と土と草でできた道が向こう側の壁へむかって延々と続いていた。こんななにもない場所で野生動物に襲われたら死ぬだろうと考えながら、あなたの手を握り、一歩一歩たしかめるように進んでゆく。あなたは歩けるようになって日も浅いから基礎体力の足りないところがあって、何度も小休憩をして語らったり黙って空を見たりを繰り返していた。 「向こうへは……行きたいですか?」 「行きたい。君は嫌だろうが」 「仰せのままに。どうせもう死を見ないで生きられるような場所へは帰れませんので」 「帰りたいかい?」 「いいえ。あなたを、あなたの行きたい場所へ。私がお連れするだけですよ」 「はは、ずいぶん妄信的だねドクター」 「私の神さまになるのはお嫌ですか?」 「嫌そうに見えるのならそう判断して結構だ。君の直感は正しいのだからね」 「意地の悪いことを仰る」 逃亡をしてから、あなたは絶えずきらきらと笑っている。それが答えだ、と思うから白く華奢な手を引き続けた。寒空の下でお互いにはじめての夜営をして、無事に朝を迎えれば生き長らえたと喜びあって、また少しずつ歩みを進めてゆく。よく眠れるわけもないから体力は擦りきれ、変わらぬ景色に目も飽いて、どんどんとうつむくようなのにあなたがいるだけで満ち足りた旅だと思うのだ。あなたは食事の必要がないから、私のぶんの食糧を多めにとることができたというのも一因ではある。 「向こうについたら、どんなところをめざしましょうか」 「さまざまなひとにも逢いたいし、ひとのいない場所も見たい。いきものも、もちろん死体も瓦礫の山も見る。『神殿』で見てきたものを、この目でたしかめたいと思っている。行けるところまではどこまでも」 「……守りきれるでしょうか。不安です」 「そのまま返そう。君は私と違って食糧をうしなえば死ぬのだから。わたしより先に死んではいけないよドクター。死ぬのならその前にわたしの翼を抜くことだ」 「それは……、あなたが望まれても無理かもしれません」 「覚悟をしておくのだね。おあつらえ向きの旅ならまだまだある」 なんて、冗談ではすまないことをゆるゆると語っていたら壁向こうの関所へたどりつく。バーコードを提示し、通される。 関所の職員らしき男がぶしつけに武器は持っていないのかと問うた。持っていないと答えるとじゃああんたらきっと今日中に死ぬよと返された。そんなにもあっさりと覚悟の時が訪れるものだろうかと眉を潜めた刹那、手を引っ張られてあなたの目を見た。真剣そのものといったいろをしていたから頷きかえして、関所の男に向き直る。 力を使う。そう意識をするだけでいい。 「……では貴方が、私達を護ってください」 よくない未来を予見したうえでそんなことを『啓示』したのだから、ああ、またひとを殺してしまったなと――思うだけだった。思って胸を痛める、また悪夢を見る、ただそれだけ。 「行こうドクター」 「……、はい」 あなただって傲慢なひとだ。いのちを押し退けてでも旅をする、その意志は結果を見るならある種の暴力でさえある。それでも。私は誰かほか大勢のいのちよりもあなたの笑顔を選んだ。同時に私はひとより少しだけ有能だった。なにもかも、ただそれだけのこと。 壁の内側は土が汚染されて赤かった。家並みは屋根のあるものから壁もないものまでまちまちで、ごちゃついた道端にいびきをかく男性が何人かと裸足の少年たちがいる。 「アディショナルパーツは高く売れるから狙われる。関所に張っているだれかが今ごろ獲物の到着を殺し屋に報告しにいったはずだよ」 「……まさか着いてさっそく流血沙汰とは」 「それで経済が回っている。皆の生き意地の汚さでね。……それなら、わたしは負けない」 強い目をしてあなたは町並みを見つめた。握る手に力が込められていたから握り返した。 「罪が苦しければ転嫁してくれて構わない。わたしは、背負えるよ」 「……今なんだかとても悔しい気がしました」 「強くなりたければなればいい。君もまだ変われる、若いのだから。ただし……弱さも美しさだ、とだけ言っておこう。胸は痛む方が正常だ」 赤茶けた町を歩いていく。力を、ためらうことなく使って、いのちを繋ぐ。それがこの場所の掟のようなもので、つまりは弱肉強食の世で、私達はきっと頭から尻尾まで文句のつけようもなく強者であった。 悪夢はやっぱりぶり返して、うなされてはあなたに起こされる日々が続き、それでも殺したものを数えることだけはやめなかった。よん、ご、ろく、なな。痛みは増すというより慢性化して、呼吸はずっと浅くて苦しい。はち、きゅう。あなたが血を前にしてもひとみに深く慈しみを灯すから、泣き崩れることだけはしなくて済んでいた。隣にいたのがあなたでなければとうの昔に発狂していたろうと、自分のことでもそれだけははっきりとわかった。そんなまぶしい地獄のさなかをどこまでも歩いていた。二日もひとつところに留まることは私が体調を崩さぬ限りない。移動、移動、その先でなにかを見てあなたが笑って私が泣いて、眠って悪夢を見て起きて、朝焼けを拝んで愛を語る――そうしていつからかあなたに通り名がついていた。たんに、天使、と。その翼を見たものはかならず死ぬとさえ噂が流れたからふたりで笑い飛ばした。さすがにそれはない。と、思いたい。 「……ドクター、お願いがあるんだ」 「どうされました、改まって?」 「わたしに名前をくれないかい」 天使なんて呼ばれるのは少し恥ずかしいんだ、とあなたが頬を掻いた。 「……慎んでお断りさせていただきます」 「む、どうして?」 「他人にあなたの存在を記号つきで記憶させるのはかなり癪ですね、私だけの神さま」 「そういったことを臆面もなく言うものだな、君は」 「そろそろ嫌がらないとつけあがりますよ」 「どうぞ。見ていておもしろいことをわたしに止める理由はないのでね」 「ではそのように」 数か月、そうして壁の中をさまよい歩いて過ごした。 ――ひとつだけ、特筆をしよう。 ある比較的治安のいい地域にいたころ、あなたにめずらしく数日滞在の意志を示させるものと出逢った。それはストリートで聴こえてきたある旋律の存在だった。見れば、道端で土のうえにあぐらをかいてひとり笛をかまえるミュージシャンがいて、私達は何軒か先の路地から遠巻きにその演奏を聴いていた。高くも低くもない、ただ深くやわらかな音色だ。あなたの声によく似ていると思ったけれど、真剣に聴き入るあなたに水は差すまいと口をつぐんだ。二日だけ滞在をして、さあもう移動をしようと出発するときになって、あなたは翼を隠した格好でそのミュージシャンに声をかけた。 <questions> いつでも演奏をしているようですが、それで生きてゆけるのですか。 ――いいえ。今は理解のある友人に生活を支えてもらっています。 なぜ演奏を続けるのですか。 ――悼むことを、忘れてしまわないために。こころをそのまま残しておけるのが芸術の特権ですから。 </questions> ミュージシャンはそれきり演奏に戻ったので、あと一曲だけ聴いて私達はまた町を去った。 こんどは緩衝地帯へ行きたいとあなたが言ったので、また壁をめざすこととする。緩衝地帯は基本的に立ち入り禁止であるのだが、こちらがわの関所は管理がゆるいのでたとえ一般人でも容易に抜けられるらしい。誰もいない場所へひとりで死ににゆく者というのが、一定数いるのだ。 道中、あなたはよく歌を口ずさむようになった。どうも聴いた旋律が耳について離れないらしい。やっぱり声が似ている、と言うと笑って返された。 そして。 「……さて、ドクター?」 「はい」 「わたしにいちばん似合う景色を探してほしい」 関所を抜け、緩衝地帯へ一歩を踏み出したとき、あなたは風に翼をひるがえしてぽつりと告げた。 ▲ ▼ |