[携帯モード] [URL送信]

 
escape
<scene-shift>
<time:escape>
<side:Misu>

 安堵。そう呼ぶにふさわしいだろう力の抜けた笑みを浮かべて彼が、では、とつぶやいた。刹那に『神殿』の電源が強制的に落とされ辺りは真っ暗闇となる。思考の隅にあったアクセスポイントの使用権限も同時に剥奪され視界が赤く点滅した。こうなってはもう、わたしはただ少々永く生きただけの少女でしかない。施設内にサイレンが響く。どこかでシャッターの降りてゆく振動が足元につたわる。

「いっしょに逃げましょう」

 なにも見えない闇のさなかで耳もとに彼の声がして、迷いのない大きな手がやんわりとわたしの手を掴んだ。ああ、そんな言葉をさらりと吐いた君の顔が見られなかったことを残念に思おう。そして手はすぐに離れていって、足音が遠ざかる。彼の向かったのはおそらく入り口のほうだ。

「部屋、見えているのか?」
「そうかもしれません。……その場から五歩下がってください。そこに壁がありますから、できるだけ部屋の隅へ。あぶないですから」

 促されるままに暗がりを五歩だけ下がると翼の先が壁にあたって、壁づたいに角っこへ移動しておく。いつも穏やかな彼の声には、今回ばかりはここで逆らってはなにかまずそうだと思わせる気迫があった。
 窪原康也。はじめて出逢ったときから切れ者なのに感情的で変わった男だとは思っていたが、まさかみずからの造り出した神をみずからの手で失墜させようとは恐れ入る。そんなにも、わたしの、わたし自身の声が聞きたいか。幸をよろこび不幸を哀しめと、そのすべてを叫んでみせろというのか。――構わない。不老不死は暇なのだからね。いちばん楽しい時間をくれた君が言うのなら、そうしよう。ただしきっと楽しませてくれ。
 ギギギとやかましい扉が開いて面識のないガードマンの一団が顔を出した。逆光には立姿しか浮かばぬドクター窪原はちいさく会釈をして、とたんに一団の全員が踵を返し、連れていたドローンもろとも一目散に外へむかって走り出した。――え?

「もう大丈夫。行きましょう」
「今しがた何をしたのか詳しく聞きたいのだが」
「お話なら命の安全を確保してからいくらでも」

 ドクターが部屋の隅に縮こまっていたわたしに笑いかけて右手を差し出した。意を決してその手を握ると力強く引っ張られて、そのままふたり駆け出す。緊急事態を告げるサイレンが鳴り止まないのに、落とされたばかりのシャッターはわたしたちに行く道をゆずろうと次つぎに上がっていく。ほの白いラボラトリーの廊下はきれいさっぱり何者の気配もなく、わたしたちはすいすいと駆けてどこか遠くをめざしている。異様なばかりだ。シャッターは。ガードマンは。ドローンは。他のラボラトリーの面々は。セキュリティチェックは。閉ざされるべきなのにどうして道が開けてゆくのだ。彼はいったい何者で、何をして。

「なあ、ドクター、どうしてっ……」
「わかりません。でもこれで、たぶん、あなたの願いはかなうはずだから」
「君、は、それでいいのかっ? 科学は? 地位は? 暮らしは?」
「そんなの、かまうものか」
「っふ、はは、天才と馬鹿は紙一重というやつか!」
「ええ、ですからちゃんと笑い飛ばしてください。楽しんでください。私のことを」

 なあドクター、知っているだろうか。そんなばかげた意志の奔流を、俗には恋と呼ぶのだということを。
 息が絶え絶えになるまで駆け続けた。この足で施設を出る頃になってドクターの白衣を借りて翼を隠し、やはり誰も追っ手がないことを不審がりながら連れられるまま簡素なアパートの一室へ。ポストの名札がKubowaraになっていたからここが彼の住みかだとわかって、転がり込んだかと思えば彼がなにやら荷物をかき集めてまた出発をしようとするから引き留めた。彼のこめかみに冷や汗が伝っていてどうもつらそうだったからだ。

「すこし休めドクター、異能の乱用をして走り回ったら誰だって倒れる!」
「でも」
「君が倒れたらわたしはどうしろと? 責任をとることだ」
「っ、そう、そうですね」

 玄関先で膝をついた彼の背をさすった。走ったあとだというのに体温が低い。明らかに身体に代償がきている。異能の代償が。
 異能者、と呼ばれる不可思議な力を持つ人びとが出現し周知されたのはわたしが生まれたころの話だ。周知は異能者の起こした大規模な災厄によるもので、直後は異能者への弾圧をさけぶ動乱の時代があって幾多のあらそいが世界を覆っていた。普通の(と言ってももはや少数派であるわたしたち無能力の)人間と異能者たちの和解に用いられたものこそ、壁だった――棲み分けと不干渉の徹底によって、無能力の者たちはひとまずの安寧を得ることができた。壁の向こうでは今でも力をうまく使いこなせなかった異能者による災厄が後をたたず、したがって弾圧も争いも止んではいないが、ここ百年ほどの無能力の民にとっては知ったことではないのだろう。優雅にカフェテリアでコーヒーを嗜めるほどには穏やかに暮らせていたのだから。
 ここは安穏の、無能力の民の区画だ。
 が、異能とはそもそも突然に芽生えるものである。無能力だったとしてもふとした際に異能が芽生えて発覚し壁の向こうへ送られる民が多くいる。ドクターもそのひとりと思ってなんの不思議もない程度の数は、いる。

「ドクター、動けるか。暖まった方がいい。動けなければ毛布を持ってくるが?」
「大、丈夫、」
「ああわかった言い方が悪かった。そこで動くな。傲慢な君はすぐに無理をするからね」

 玄関先の壁にもたれて震える彼に、ひとまず借りていた白衣を羽織らせ、ワンルームの隅のベッドから毛布を引っ張ってきてさらにかぶせる。彼はありがとうとつぶやいて青い唇で呼吸を整えていた。異能の代償として体温低下は基礎症状である。わたしでなければ知らなかったかもしれないから、ここに立ち会ったのがわたしで良かった。
 静寂。

「……ドクター。いったい、いつから力が?」
「わかり、ません」
「まさか。先ほど突然に?」
「おそらく……?」
「どんな力だろうか」
「……知を……、思念を、ひとにさずける、ことでしょうか。そんな気が、します。先ほどは、ただ逃げたいと……思ったままを、まきちらしておりました。おそらく、私の思念を受けた他の者が、助けてくれたのだろうと……、」
「知……思念を……?」

 それは。

「いいかドクター、異能というものには、外向性はもちろん受動性も付随するのだ。その力が知識や思念を司るものなら、君が天才と云われているのはもしや、異能の賜物だろうか」
「……」
「だとしたら君は、君こそが、」
「わかっています! わかっておりますとも……」

 遮られたので口を閉ざした。科学者の部屋というのにこのワンルームは殺風景で、急な沈黙がやけに痛みをもってひびいた。フローリングに傷ひとつないのは家主の在宅時間が少ないからだろうと察する。ドクター窪原は暇さえあればラボラトリーにいて、勤務時間外もたいてい隣接したカフェテリアで関連の論文を読みあさっているような人間だった。それほどに熱心な、わたしの信徒だった。
 だとしたら、この事実は、嫌、と思うのだろう。
 わたしは心に特別な神を持たないからわからないが。

「君の力。あまり育つことが無ければ良いな」
「……ええ、まったく」

 全知に至る病を負った――君こそが真の神さまだ。




▲  ▼