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 天才児と呼ばれて育ったから、そうなのだろうと思って過ごしてきた。
 最初のできごとはなんだろう。喃語に単語が混じりはじめたくらいのころ、母と散歩をしていたとき、道端に咲く花を指差してどうしても持って帰ると駄々をこねたことがあった。理由は、きれいだから、ほしいから、ではなかった。土が悪くなっているから摘んで生けてやらなければこの花は明日にでも死んでしまう。そんなごたいそうな説明を、二歳ほどの頃の私が母に向かってしたのだと言う。これは世を騒がせた天才児の逸話のひとつだ。検索すればあらゆる記事が出てくる。私はむろん覚えてなどいないのだけど。
 目前に見たものの現在の状態や、たどってきた歴史、これからたどる運命が、どうしてかなんとなくわかる――ずっとそうだったから疑問に思うこともなかった。学業でも倫理と道徳のほかならたいていの問題で正解を直感できたし、人間関係でも親しくすべき者と遠ざけるべき者を出逢った刹那に判断できたから不自由のない人生だった。
 ラボラトリーからはじめてスカウトを受けたのは初等教育を終えようという頃のことだった。まだ学校で楽しみたいことが山ほどあったから、とりあえず院を出るまではフリーでいたいと返事をした。その頃には両親からは完全に放任されていて、そんな人生の決断もじぶんひとりだけでおこなっていた。下手に両親がかかわらない方が、うまくいくことが多かったためである。
 ひとりで。それなりに楽しく。友人は厳選して。心の赴くままに。直感に導かれるままに。
 実を言うと翼の開発過程で死人が出るだろうということも設計をはじめようと思い至った時点でわかっていた。予想外だったのは、自分がそれでも翼を造りたいと願ってしまったことと、いざ死体を目にしたら胸が痛んで仕方がなかったこと。
 自分のことはわからない。
 なにかを間違うとしても神さまを造りたい――あなたがそうと望むのなら。そんなことを思うみずからの心の行く末は、わからない。
 私はそういう人間だった。

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 悪夢が減っていた。翼の開発が成功したので心に余裕ができたためだろうとは察せられるも、幾多の命を踏み潰したのに自分だけが赦されてしまったなあと、そんな空しさがぬぐえることはなかった。ひとつ幸いなのは、あなたがよく笑うようになったこと、それだけだけれど十二分だ。
 五感補佐のヘッドセットは三ヶ月足らずで完成した。機能はそう複雑でないから翼のときよりもデザインに注力することができた。片耳に装着すれば全方位を一マイル先までくっきりと見通せるそれは、ゆるく曲線を描いて上向きに延びたかたちをして、たとえるなら動物の角に似ている。主たる機能は視覚の補佐だが、音も匂いも平衡も磁場も、ふつうのパーツと同じ程度には感知し、電気信号にして脳内へ送信する。
 ヘッドセットが完成する頃にはあなたのリハビリテーションもほとんど終わって自力で動けるようになっていたので、初の装着も自力でやっていただいた。

「ううん。よく見えるが、見えすぎて慣れないようだ。くらくらする」
「また訓練が必要ですね」
「お陰さまで、君がここへやって来てから、退屈をすることがなくなったよ」

 『神殿』の中央に立って、翼と角をたずさえたあなたがまた笑った。人でありながら幻獣に近いすがたをしている。私がそう設計をした。信仰には異と畏怖と美しさが必要であるから。そして、その点で言うのなら、あなたはもう十分に神さまだ。

「なあドクター、」

 人工の神さまは外付けの目の電源をオフにして肉眼で私を見上げる。片手がヘッドセットの形状をせわしく気にしている。そうしているとファッションを気にかけるふつうの少女のようにも見えたけれど、背中の羽根の白さには勝てずにどこか神聖なままだった。

「どうもデザインに凝っているようだが、それについてどう思っている?」
「……神は美しくなくては、と思いますから。あなたにいちばん似合うものをご用意したつもりですよ」

 そうかと答えたあなたが目線を下げて顔が見えなくなった。ヘッドセットに隠れていない方の耳が赤くなっていて、やっぱり少女だなとだけ思った。それもいい。それでもいい。あなたを神さまに仕立てあげるのは、あなた自身ではなく周囲の仕事だ。あなたは自由な心で好きに世界を愛せばいい。私が極力そのあと押しをするから。

 あなたがすべての訓練を終え、翼も角の目も使いこなすようになるまで、そう時間はかからなかった。本人に熱意があったことも手伝い、半年足らずで、すっかり自律した全知の異形が出来上がっていた。自律しても行動範囲は神殿周辺に限られており施設を出ることはなく、相変わらず狭苦しい暮らしではあったが、本人は終始きらきらと楽しげだから問題ない。
 その頃になって、ラボラトリー内々に「そろそろいいのでは」といった声が上がり始めた。そろそろ、神さまの存在を世界に知らしめ、指標とすべき時が来たのではないか。
 大規模な会議が執り行われることとなった。公表をするかどうか、するとしたらいつ、どのような方法でするか。
 会議を催すと通達を受けた私は、瞬間、走馬灯のようにさまざまなことを――あなたの未来のことを――直感した。

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 通達を受けたのはカフェテリアの一席でのことだ。いつも同じコーヒーのカップをつかんでいた左手、その手首に埋まった丸いパーツがふいに光って、私に表示の可否をうかがったうえでメッセージを机上に投影した。簡素なテキストはこの世界で神さまの降臨を期待するもので、文面に目を通したのは一秒、二秒目に窓外に見える壁に目をやり、三秒目にコーヒーで唇を湿らせた。四秒よりもあとになって、実感がふつふつと沸いたのだ。私の神さまが世に出るという可能性について。
 直感がかけめぐった。
 なんとなく、わかるのだ。当たり前に、生まれてずっとそうだったように。軽い未来予知であって過去の推理であって現状の把握であるそれが、抗いようもなく脳裏に咲いていく。急速に事実と想定が組み上がり思考実験は完了する。視線はただ壁にあった。どくん、どくん。嫌な音をともなって心臓が跳ねている。まさか。いや、そんな。だって。どうしろと。
 コーヒーを一気にあおって足早にカフェテリアを後にした。会議は数日後。それまでに、考えなければならないことや、鎮めなければならない感情があった。
 気づいてしまった。察してしまった。いいや最初から、はなから馬鹿げたことだったのだ。気づかなかったのは目を逸らしていたから。誰もが盲信に落ちていたから。冷静に考えろ、冷静に考えれば、とうぜんのこと。

 あなたは神さまになどなれない。
 信仰を集めこの世界をまとめ上げることなど、あなたには、できっこない。
 だって。だって、
 神さまは他に居るのだから!

 無慈悲にそう結論付けた自分の直感を呪った。早まる足がまた『神殿』をめざしていた。息を切らして重い扉をひらくと室内にひとりたたずみ森を観ているあなたのまっ白な翼が目に入った。ギギギとやかましくして扉が閉まり、ふたり、神殿での謁見がはじまる。

「どうしたドクター。慌てているようだが」
「……、」

 いったい何が言えるというのか。自らの生をただただ謳歌し笑っているあなたの存在意義を根底から否定するような運命に気づいて走り出してしまった、この衝動をどう言葉にしろというのか。わからなくてうつむいたのだ。あなたはふしぎそうに首を傾いで翼をひらりと振った。その仕草のすべてが美しいのだからなおさら何一つ言えるものか。言えないくせにまた来てしまった。自分のことはやはりわからない。
 あなたは口をつぐむ私を前にふと微笑んで、観ていた森について話をはじめた。あの陽だまりに先ほどはヤマネコがいたのだとか、そこの木にはハチドリの巣があってずっと観ていればまれに逢えるのだとか。語り口はやわらかで、他愛もないけれど、どこまでもいとおしげな。

「生命はきれいだ。そう思うだろう、ドクター?」
「……ええ。そうですね」

 その言葉を口にするのがあなたでなければ、首を横に振ったかもしれない。

「死もまた美しさの一環だ。尊さには遠さや儚さが付随するものだからね」
「……」

 悟ったようなことを、たびたび口にする。あなたは無垢だけれど、確かに長く生きすぎているから。達観し、客観視が染み付き、自我を切り捨て、遠くなった。私はそんなあなたを、そうだ、この地まで墜としてしまいたかった。そう思っていたことに、今になって気がついた。これは、なんだ。この感じは。

「そして君は、少しわたしを近くに見すぎたようだ」

 心を覗かれたような言葉に、思わず顔を上げる。どうして。私はそんなにわかりやすい振る舞いをしただろうか? そうかもしれない。自分のことはわからない。

「わかっているよ、ドクター。わたしは決して神さまにはなれない」

 ああ、心臓が。
 びりびりとして。

「っそんな、こと」
「だがね――本物かどうかなんて、きっと、彼らには関係ないのだよ。彼らは、すがる対象がほしいだけなのだから」

 あなたがすらすらと言って、景色はゆらぎ、いつかに見た壁の向こうを映し出した。埃と毒素と腐敗と血のいろをした景色に、簡単に胸が痛んで、呼吸が浅くなる。あなたは平静なままでいる。見慣れているから? そうだろう、あなたは永く水槽のなかで幾多の地獄を眺めてきたのだから。いくら知能が十五歳の少女のものとはいえそこまでしていればわからないわけはなかった。この狂信者たちのラボラトリーにどれほどの意義があるか。安穏としたカフェテリアの窓外、遠くのぞむ壁のむこうに、ここから届く手など本当にあるのかどうか。
 わかっていてなお、幸福だとか感謝だとか言ってしまえるのだから。あなたは本当に、視座ばかりが神域にあるのだ。

「だからわたしは、彼らを失望させぬよう、未知で、遠い存在であればいい。そうは思わないかい、ドクター?」

 あなたのいう『彼ら』が誰なのか。わかってしまうから、粉塵のなかでうずくまって動けない。遠く壁向こうで苦しむ人びとではない。混沌の世界を憂う皆々でもない。彼女が君臨して救える者は、かぎられていた。それは、そうだ、――私達、信徒。神の研究という正義の旗にすがりたかった人びと。

「いいえ、思いませんよ。だって」

 無礼な発言をお許しくださいとも言えないうちに喉の奥から低い声が飛び出した。嫌だ、嫌だ、と幼子のように単純な感情だけが思考回路をぐるぐると占拠していた。なにが嫌なのかはうまく言えない。わからない。わかるものか。

「私はもうあなたを遠い存在とは思っておりませんから」

 言葉になって出ていく感情は悲しいくらいに不透明で濁っていた。あなたの背負う純白の前には砕け散って消えてしまうていどの浅はかな感情だけれどそれでも吐かなければならないと腹のうちでめらめらゆらめく衝動が云った。嫌だ。嫌だ。逃げてしまいたい。何から? この感情から? だから、

「さあ、無駄話は終えましょう。だって、それではまるで人間のようですよ。あなたは、私たちの神さまなのでしょう」

 言っていることがめちゃくちゃであると自覚していた。墜としたいのに、墜としたのに、まだ信仰していたいつもりか、神を墜とすみずからを許せないのか、信徒に甘んじて盲目となるみずからを許せないのか、まったくもってわからない。私はこんなにもわからないのに、あなたはかすかに目を見張って微笑み、そうだねと返しただけで映像を戻してしまったから報われない。またそうやって一歩退いて世界を見る、あなたにはわかっているのですか。わかっているのなら、どうかご教示を。知りたいよ。知りたいのだ。自分のこともあなたのことも。神さまにはなれないと当たり前に理解っていてそれでも被験者で在り続けるあなたの心を知りたい。

「ふむ……困った。君はどうすれば落ち着いてくれるだろうか」
「……あなたは、」

 やはりあなたには翠いろが似合う。森のさなかに佇む天使に、私はうずくまったまま言い募る。

「ご自分の行く末を、どうしたいとお考えなのですか」
「行く末というと?」
「生きていたい、は今さら無しです。ご自分が監禁されて二百年を過ごしたこと、多くの死を見た眼が弱ったこと、研究者の皆々に神を望まれていること、ほんとうは神さまになどなれないこと、水槽を出て翼を得たこと、歩けるようになったこと、新たな目を得たこと、それでもラボの外へは行けないこと、ぜんぶがあなたのものです! それらを、一体どうしたいとお思いなのですか」

 ああ、と一片の冷静な自分が告げる。今のは自殺行為だ。そんなことを口走って無事で帰れるものだろうか。狂信者たちの砦の内側で神を打ち砕くような言葉をさけんだ。狂信者たちの信仰からのおこないをもっぱら糾弾した。きっと罰せられる。言ってしまったものはもう戻れないのだから覚悟をするくらいしかできることがない。
 あなたは惨めな私を見下ろして呆れたように肩をすくめ、ころころと笑った。

「ドクター窪原、君は本当に気持ちが急くととたんに調子を崩すね。君こそ、いいのかい? そんなで」
「ええ真剣です。めちゃくちゃなのはわかっています、それでも、私はあなたの言葉を聞きたい、答えを、知りたいのです……」

 もうどうなったっていい。私はあなたという神さまの。ひとりの少女の。答えを知りたい。
 純白の不死鳥の翼が、木漏れ日に向かって持ち上げられる。限界まで広がったそれの白さには目がくらみそうだった。あなたはヘッドセットを片手間に取り外して、目を細めてうずくまる私を見る。口許には笑みが、けれど目が笑っていない。

「問うよドクター。君が聞いたのだから、答えを聞く覚悟はあるね?」
「……ええ」
「もとの立場には戻れないよ」
「構いません、その忠告なら、とうに手遅れですので」
「では、お答えしよう」

 最奥の壁の一面が刹那に黒く染まり、懐かしい白のヘルベチカが短く文言を綴った。

 わたしは遠くへ行きたい。




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