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birthday
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<side:Misu>

 ――成功だ! そんな声が遠く聴こえて、薄ら目を開いた。目にうつるすべてはいつも見る景色よりもブルーとイエローが少なくて赤みが強い。低くうなる水の音がどこからも聴こえない代わりに空気の流れるさらさらとしたノイズが耳のなかに触れる。身体にかかる毛布がこそばゆくて、呼吸の感覚もふしぎだ。なつかしいと言えたらよかったが、新鮮としか思えないのは、二百年前の実感などとうに忘れ去ったからだった。
 さいしょに見たのは窪原康也の泣きそうに笑んだ表情。

「どうした、ドクター、そんな顔をして?」
「うれしいのです。あなたが無事に目覚めたことが」

 思考の片隅にあるアクセスポイントから時刻を確認する。わたしに翼を植え、水槽から出す施術は小一時間ていどで済んだらしいが、その後わたしが半日ほど眠りこけていたから心配性のドクターが傍に貼り付いていたのだとわかった。翼の開発で数人を殺した彼は、開発がほぼ間違いなく成功したからさあ施術に踏み切ろうと思われたときでさえ不安げな顔をしていたものだ。よほどわたしを殺してしまうのが恐ろしかったらしい。長年にわたる不老不死の実現過程においてここまで生き残れた例はわたしだけなのだから無理もないが。
 肩甲骨の辺りに感覚をもっていくと、新たにわたしの一部となったアディショナルパーツの翼がふるりと震えた。疑似神経と編み込まれた筋繊維のあつかいに脳が慣れるまでは訓練が必要で、今はあまり上手には動かせない。が、確かに、翼が生えていた。わたしの背に。そして、わたしは、今、水の外で息をしていた。この羽根によって生かされていた。

「ああ、喜ばしいな。君達の造った不死は、きっともうすぐ完成するのだろうね……」

 けっして死なない身体。永遠のいのち。神さまなんてそのついでにすぎない。わたしは、生きていたいだけだ。
 歓喜を糧に翼に力をこめる。不器用にふるえては縮んで、けれども設計がよいのか慣れないわりには楽に正しい軌道を描いた。大空をかける鳥がそうするように、めいっぱいに翼がひろがる。まっ白でやわらかな、不死鳥の羽根。
 さあ、やっとみずから動けるようになったのだから、礼のひとつでもしよう。身を起こすととっさにドクターがわたしの肩を支えた。誰かに直接触れられるのもはじめてのことで、体温というものに少しだけおどろいた。

「ドクター窪原。ほかラボラトリーの皆々。わたしを水槽から出してくれたこと、心より感謝しよう」

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<time:birthday>

 それから。
 わたしはたびたび翼の整備を受けながらもリハビリテーションに明け暮れた。翼はもちろんだが、ずっと浮力に助けられてきたものだから自力で身体を起こすことにも不自由するほど筋力がなかったためだ。わざわざ筋力をつけて身体を動かさずともアクセスポイントから車椅子に指示を出して自由に動き回ることなどは可能な時世であったが、どうもわたしは二百年ぶりの外界に惚れ込んでしまって、自分の足で地を踏みしめてみたくなったのだった。専門のスタッフをやとい、毎日、身体を動かして、翼を閉じたり広げたりする。とはいえ翼については生えている時点で役割を終えているため、動かせるようになってもそう使い道はないのだが。そこはまあ、気分だ。
 『神殿』の水槽は撤去され、代わりにわたしの車椅子が出入りをするようになった。もう『神殿』に引きこもる必要もないが、わたしにとってどこよりも落ち着ける場所であったうえ、謁見をするなら習慣づいてこの場所となっていたのだ。
 二ヶ月が経過したある日、わたしははじめて施設の外に出る機会を与えられた。もう数十メートルは自力で歩けるようになっていたが、翼を隠すために車椅子に座り、ブランケットを羽織っての外出となる。施設の庭に花が咲いたから観に行きましょう、と。わたしの外出を進言したのは窪原康也だった。

「本当の花は立体映像よりもう少しだけ美しいですから」

 『神殿』へ迎えに来た彼がそう言ってはにかんだ。
 念のためわたしにはアクセスできぬようロックされた車椅子をドクターが押して、ほの白いラボラトリーの廊下を抜けた。車輪はなめらかに床をすすんで振動はきわめて微細だ。それでも人に押されると普段とは感覚が違っておもしろいので、外へ出る前からはしゃいだ気分でいた。

「リハビリはどうです。つらくありませんか」
「身体が追い付かずに疲れてしまうことはあるが、楽しいよ」
「もうかなり歩けるそうですね。すばらしい熱意です」
「どうもありがとう。ドクターも出世をしたのだろう。気苦労など増えているのでは?」
「ええ、雑務は増える一方ですよ。しかし補って余りあるほどには楽しんでおります、」

 あなたの神としてのご成長などを。
 そう続けたドクターの声は後ろ斜め上からしている。こうして生身で音を聴く感触というのもいまだに慣れぬようでこそばゆいのだ。翼をさずかるまではアクセスポイントを介して電子化された音声信号を脳内で直接拾っていたので。
 セキュリティチェックを何重にもくぐって外庭へ、透明の仕切りがわたし達の行く手を避けて開いてゆく。光が近づき、ふいにドクターが目を閉じてくださいと言った。なるほど確かにそのほうがおもしろそうだから素直にしたがって、いちばん景色のよい場所で声をかけてくれと頼んだ。
 まず感じたのは温度。じわりと暖かさを増してゆく日光の赤み。それからゆるやかな風に運ばれる花の香り。車輪が土の道を転がる音。
 すべてわたしの知らないもの。

「どうぞ。ご覧になってください」

 声がしても目を開かなかった。
 まだ、もう少し、はじめましての世界を感じていたい。もっと情報が増えるようだと、景色を嗜むにもキャパシティが足りないだろうと思った。

「まだ、まって」
「……ええ、ご自由に」

 笑った気配がして土を踏む音が後ろからとなりへ回った。そこだけ風がさえぎられたから見えなくとも存在がわかった。花の香のなかでひとつだけこの二ヶ月でよく知った香りが混ざる。これはたぶんコーヒーだ。ドクターが昼休憩のあいだカフェテリアにいたのだろうと察せられてなんだかおかしい。これではわたしが犬みたいだ。
 笑ってしまった拍子に目を開いた。
 光に、一瞬くらんで、像が結び直される。

「見えますか」
「少しはね」
「……目をつくりましょうか。今度は」
「では着脱可能なものを。肉眼で見たい景色というのも、あるものだよ」
「すぐにでも。不死鳥の翼よりもよほど簡単です」

 なんてことのない、晴天のもとで花壇に花が並ぶだけの景色を、わたしはただ食い入るように見つめていた。花の細かな形までは近づかなければ見えないが、色と香りだけでもじゅうぶんに思えた。昼下がりのやわらかな光を受けて、花もよろこんでいるとわかるような気がした。植物に言葉はないが、意識は、感情は、あると云われている。
 息をつく。
 まぶしい。

「君達は……ここで暮らしているのだね」

 こんな、些細なすべてのあざやかな世界で。

「あなたも」
「そうだった」

 傍らのドクターを見上げると、彼は困ったように笑った。

「なんだい、その顔は」
「どんな顔でしょう」
「困っているように見えるが」
「ええまあ、困っていますよ」

 ドクターが二歩三歩と行って咲く花に指先を触れた。なにをするでもなくその手が離れて、視線がこちらへ振り向く。

「たわごとを言っても?」
「許可しよう」
「……あなたの目で見ているのに、まだ客体視が直らないようですから。ここは、あなたの世界なのに。あなたが喜んで、あなたが泣くための世界なのに。やっぱり私達のことばかり考えておいでですね?」

 じわり。言われた意味が腑に落ちるまで、ずいぶん時間をかけた。遅れて目をみはって、言葉をさがした唇が震える。そんな、こと。そんなことを言うのは君くらいだよ、ドクター。わたしを神にすると言うくせに。わたしに恩恵や制裁でなく自我を求めるだなんて、おかしな話ではないか。わたしを、人間にしたいのだろうか。翼なんかをさずけたくせに。

「ふ、ふふ。変わらないねドクター。君は配属初日にも似たことを言った。わたしに向かって、幸福ですか、と」
「そうでしたか」

 おかしな話だ。だから、腹を抱えて笑った。二百年ぶりに肩を震わせて笑った。つられた彼もまた、わけもわからず笑っていた。花々と陽射しと、土とコーヒーのにおいがしていた。

「ではお聞きします。……花をみて、あなたのご感想は?」
「あぁ。なにもかもおどろいたよ。世界は、美しいな」

 些細なすべてのことを愛しているつもりだった。うすい翠の水流も脳裏を駆け抜ける電子のことも。愛しているから、それらに触れることが、生きることが好きなのだと思っていた。けれどもそれはどうやらこれまでの正解となるには少し足りない。だってわたしは、すべてのことを今の今まで知らなかった。そして、知ってしまったこの今から、わたしの生がはじまる。



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