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sin
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<time:angelmakIng>

 あくる日の夜半、私は悪夢で目を覚ました。悪夢で目を覚ましたという認識はあっても夢の内容を克明には思い出せず、動悸と冷や汗ばかりがしつこかった。よくあることだと一蹴して朝までは眠り直そうと、そう思ったのに目が冴えてしまって致し方なく身支度をする。職場までは歩いて数分のこざっぱりしたアパートの一室が私の寝床だった。
 洗いたての白衣を鞄に詰め込み、いつものラボラトリーへ。時間帯を問わずこうこうと明るいエントランスで左手首のパーツを掲げ身分を認証する。戸が開いてほの白い廊下に出迎えられると、脇の部屋に構えていた事務員が私を目に声をあげる。

「あらドクター? 早退したと聞いておりましたが」
「仮眠は取ってきました。データの検証に戻ります」
「失礼ですが顔色がよろしくないようですよ。もう少し休まれては?」
「気が急いてしまって」

 会釈をして、歩き去る。更衣室へ入って、白衣を羽織る。まだ悪夢の余韻が消えない。わけもなく切れる息を、誰にも悟られまいとしてなおさら浅くした。おぼつかない足取りで、気づけば『神殿』に向かっていたから自分で驚いた。デスクに着いて細かな作業なんかをして気を休めようと思っていたはずだった。どうして、と自らに問いながらセキュリティチェックをいくつも通過した。
 ギギギとやかましくして重たい扉を開く。『神殿』に立ち入ると、あなたはいつものヘルベチカでやあと言って私を出迎えた。文字列は私の返事を待たずにうつろう。
 話は聞いているよ、ドクター。眠れたかい?

「……少し」

 なら、よかった。
 対面の一枚以外にうつされた映像がゆらりゆらりと明滅して穏やかな景色を見せる。壁の向こうには数十マイルを基本とした広大な緩衝地帯があって、そこへは基本的に電波塔の管理と移住時の渡り以外の用事で人が立ち入ってはいけないことになっていた。よって自然なままの景色がひろがっていて、ゆたかな山であったり森であったり草原であったりするのだ。そんな場所にも電波塔だけは律儀に等間隔で立っているのだから笑うところだろうか、しかしお陰さまであなたがこの雄大な景色を鑑賞できるのだから、私は感謝をするしかない。
 私は映しだされる花々の群生地でそよ風を受けながらあなたに何を言おうかと考えていた。息が苦しいのは相変わらずで、たたずむにも力が入らないやら入りすぎるやら。こんな醜態を神前にさらすものでもないのかもしれなかった。それでも、この足は逢いに来てしまった。
 花は好きか?
 ふいにあなたがゆるやかに微笑んで問うた。わざわざ風景の雰囲気に合わせたのか字体が細身の筆記体に変わっている。芸の細かいことだった。自然、不老不死とは果てしなく暇をもて余すことでもあるので。

「ええ。少年時代は夢中で研究対象としておりましたから」

 では、他に好きなものは。

「好きなもの……?」

 景色と言い換えよう。あるいは音楽でもいい。君は傷心のようだから、わたしにできる手伝いはきれいなものを見せてやることくらいだろうと思ってね。
 あなたがそう続けたので私は目をみはって、ありがとうございますとつぶやいて足元へ視線を落とした。声が震えてしまう。これでも、これでもできるだけ気丈に振る舞いたかったつもりだ。情けないすがたを見せてしまった。増した痛みに胸を押さえてしまって、ああと思う。もう保てる体裁など。
 花畑が溶け落ちて景色は深海へうつろいだ。ゆら、ゆらと深い青にさかなの影がよぎっては去ってゆく。景色の変化におどろいてちらと顔をあげると文字列が更新された。
 ドクター窪原、君はどうやら佳境にあってもだれにも頼っていないようだ。天才とは孤独を宿命づけられるものだろうか。難儀なものだ。
 元通りのヘルベチカに、責められている気がして奥歯を噛み締めた。

「……申し訳、ございません。友人には恵まれておりますが……この件はもっぱら私の責任ですので、変に言って負担をおわせるのも、と……」

 そう思ってしまうことが孤独であり難儀なのだ。上に立つものの傲慢でもある。

「……」

 責めてはいないよドクター。ただ、苦しければ素直に苦しめばいいのだと、少しばかり年上ぶった助言を試みているにすぎない。聞きいれるかどうかも君にゆだねよう。そして、こちらも無視をしてかまわない進言だが――、話なら聞こう。わたしは暇なのでね。
 光るクラゲが泳いでゆく。低い水流の音は臓腑の深層にひびくようで心地がよかった。水槽のなかから目を細めてクラゲをながめるあなたもきっと平生からこんな音を聴いているのだろうと思うとどうしてか力が抜けていく。痛切に思う。ああ、なんて、やさしいかみさま。そうとも。私はとうに狂信に落ちていると自覚があった。心のうちであなたを私の神さまにしてしまっていた。そうでなければこんなあやまちなど犯さなかった。

「……はじめてでした。ひとを、殺したのは」

 言葉が、喉の奥から、痛みを伴って溢れ出る。それは正しく神への懺悔として。

「たくさんのものを殺してきました。上流層に生まれた時点で……。生きてゆこうとする時点で、対価はつきものだと、誰かの、あまたの命に生かされていることなどは、生物学者のはしくれですから解っているつもりです。でも、それでもラットの死を目のまえに見たときは胸が痛みました。ずっと……、悪夢を見ます。それなのに、ついに、私はひとを」

 一息で言ってしまったからそこで酸素が足りなくなって、あわてて呼吸をした。

「っ……私はひとを殺した。成功しない可能性をじゅうぶんに承知したうえで、被験者を募りました。不完全とわかっていて、それでも翼を植えて試してみるために……ひとを使って、使い潰したのです」

 ――あなたのために。
 なんてことは言えるはずもなく、足りない息を吐いてうずくまった。立っていられなかった。ごうごうと水の音がしていた。
 おだやかなカフェテリアの一席で、白紙に思いつきの天使を描いた。あれから何日、何週間、何ヵ月とふたり協議を重ねて、いつしかプロジェクトメンバー全員にまで話がひろがり、二年もすると翼の設計が現実味を帯びた。息をつくいとまもなく朝晩、食事時に至るまでパーツのことを考え、試作をしてはあきらめて捨て去ったり改良のきざしに安堵をしたり――そうして失敗の可能性を承知で被験者を募ることを厭わなかった。明確な、殺人だ。死体を目にしてはじめて自らの覚悟の甘さに気づかされるなど、本当に情けないばかりだった。できれば誰にもこんなすがたを見せたくはないのに、私は今もっとも尊い者のまえで膝を抱えているのだ。
 そうか。
 あなたはたったそれだけの相槌をうって私を見つめた。

「すべて、機密に処理されるだけです。次も同じ実験をやることだってあるでしょう。そして誰も、あなたも私を裁いてはくださらないでしょうね」

 当て付けのようなことを吐いた。それで罰してもらえるのなら万々歳だと思った。そんな私に、あなたは両目をぱちくりとして笑うだけだった。
 君がわたしを神としてくれるのなら、裁かれたければ裁いてあげよう。赦されたければ赦そう。君自身の納得のためにわたしが必要ならば、君が言うのならそうしよう。どれにせよ、君をどうするかは、君が決めることだ。
 深海がはじけ飛んで青天井が突き抜けた。風がひやりとして舞い荒ぶから白衣の裾に殴られる。この空はいま現在のそれだろうか、瑠璃の朝焼けが地平のむこうでにじんで見えた。美しい景色だった。私も、あなたもちっぽけに思えるほど。
 ちっぽけな私に選べることなど、ちっぽけなあなたに赦せることなど多くはない。言外にそう言われたような気がした。
 痛む胸を両の手で押さえたまま、くらくらとするまま立ち上がる。蒼く澄んだ風と空の真ん中に浮かぶあなたが、そしてその面前には私がいる。最上級の謁見場で。

「私は」

 息を吸って口を開く。言葉を喉から舌のうえに。震えぬように、のたまう。
 悪夢ばかりを見る。それが贖罪になるのならいくらでも見よう。初めて自らの関わった実験でラットの死を見たときから――人の死を見たのならなおさら――悪夢はいつまでも止まないのだろう。
 それでも、と思った。
 すべては私の選択の行く末だ。

「私はあなたを神さまにします」

 発した声は掠れなかった。よかったと思った。
 あなたを神にするために、そうと望むみずからの信念のために罪をおかした。やり遂げなければ、世界を救わなければ、報われないのだ。死者がではない、死者に報いる方法などありはしない。それでも、ただ、私の歩んだこれまでを少しでも是とするために。
 楽しみだ。
 あなたは簡素に一文だけを綴ってみせた。




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