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 ほの白いラボラトリーの廊下を青年が歩いている。
 世界中で最も歴史ある名高い研究室に配属されるともあれば、彼が心なしか浮かれているように見えるのもおそらく当然なのだろう。大学院をあがって幾日とたたない彼はここへ招かれるにしてはいささか若く、しかし見合うほどには天才と云われていた。
 名を窪原康也という。
 専攻はケミカルバイオロジー。ジャパニーズである彼がアメリカで専門のハイスクールに通う頃には彼による数多の論文が科学雑誌に掲載され、世界中のマスメディアにも天才児と取り沙汰された。そんな彼がどれほど科学に人生を捧げてきたかと思えば、この人事に彼が喜ぶことはやはり自然であった。
 しかし、それもまたいつも通り一瞬のことであろう。この研究室は文字通り『聖地』であるから。彼らは定まって盲目的に彼らの神=\―実験動物を祀らねばならない。その歪んだ精神が大前提となるここへ初めて招かれ、その日の暮れまで笑顔を保つ者は少ない。
 ともあれ彼は今たいして面白くもないだろう窓外の景色を眩しそうに見つめ、室長直々の職場案内を受けている。音の響きやすいこの建物にもさっぱり響かない足音が、彼の柔和さを象徴するようであった。

「こちらです、ドクタークボワラ」ある部屋の重い鉄扉の前で二人が立ち留まる。「私達はこちらを神殿と呼びます。貴方なら心配ないでしょうが、どうかご静粛にお願いします」
「神殿、と言いますと?」彼は怪訝そうに問う。
「書類には目を通しましたね。こちらには神がおいでなのです」
「神、ですか」
「ええ」

 厳かに頷いて室長が扉を押し開ける。ギギギとやかましくして『神殿』に立ち入った二人は、同時に同じほうを――、わたしを、見た。
 彼は驚きに目を見張る。とうに見慣れているよ、その顔は。そして彼はわたしが何者かと、もしくはこの設備は一体何かと尋ねるだろう。だから、わたしは聞かれるより先に応答をする。部屋の最奥の壁一面がふっと黒く染まり、そこへ白のヘルベチカでわたしは数行の文字列を綴った。
 ハロー、ドクター窪原。お会いできて光栄だ。プロジェクト配属、おめでとう。

「これは、彼女の言葉ですか?」

 その通り。
 わたしはプロジェクトの被験者としては唯一の生き残りだ。ここの創立からもうかれこれ二一三年はこうしているわりに知能レベルは高くないのだが、こうして多少の会話をすることは可能だよ。
 室長、ドクターと少し話がしたいので、退室をお願いできるだろうか。

「承りました。では後程」

 ああ、また。
 立て付けの悪い鉄扉が再び開き閉められると、部屋はとたんに静けさを増した。もっとも、ほのかに青い灯りのもとで緑の草原や色鮮やかな大宇宙が明滅するこの『神殿』は視覚的にはたいそう賑やかで、さらには彼の思考もまだまだ静まってはいないであろう。先程まではあふれる好奇心や希望を秘め輝いていたその黒い目にはさまざまな疑念の色が泳いでいる。
 暫しの沈黙が満ちた。彼はわたしのすがたを上から下まで凝視したまま動かない。二百年もこのまま何人もの研究者と対話をしてきたためわたしに羞恥はないのだが、彼にはあるようで、沈黙を経てあからさまに顔を背けられた。一糸纏わず特殊な水槽に泳がされている年頃の少女の姿を、見つめるのも不謹慎と判断したらしい。
 なあドクター、解っているだろうか。このラボラトリーはわたしという実験動物を開発するためにある。

「聞いていません。プロジェクトはこんな非人道的な実験を行っていたのですか。これは、監禁ではありませんか」

 肯定。不老不死の開発は既に半分ほど成功している。私は今年で二二八歳になるが、うち二一三年はこの水槽の中だ。ここから出たら死んでしまうのだから、不完全ではあるがね。

「成功していたのに……しかもこんな悪質な実験をしていて隠蔽するだなんて。そんなことがあってもいいものでしょうか」

 むろん同意の上だ。契約書も保管している。しっかりとわたしの自筆でサインをしてある。被験者は志願制だったものでね。
 実験の隠蔽についてはたしかに良いことではないが、公表の機会はうかがっているところだと聞く。

「そんな……」

 それでも、と言いたげに彼は眉根を寄せうつむいた。それでも、と言いたいのはこちらの方だというのに。
 なあ、ドクター?
 それでもこの世界には神が必要だろう?

「神……?」

 怪訝そうにつぶやいて彼が顔を上げた。
 ああ、と考える。此度の研究者はどうやら駄目だったようだ。せっかく逸材を招いても、研究自体に反対されてはどうしようもない。丁重に口封じをしてお帰りいただくしかないだろうか。
 いろいろと管のつながった腕を動かすと低い音をたてて水流がゆらめく。ガラスの壁に手のひらをついて彼の立つほうへ身を寄せる。思考の片隅、アクセスポイントに意識をやって、室内の全方向立体シアターに命令を送った。
 ごうと鳴って風がよぎる。空は青天、なれども粉塵が光をさえぎり舞っている。彼は目をみはって、遠く、そびえ立つ壁に対峙した。

「――壁向こう」

 溢された単語を皮切りに映像が切り替わる。壁の内側の世界を肉薄してうつす。燃え盛る町、消えゆく人びと、瓦礫の山、混沌として生きつなぐ者々の慟哭。砂埃と赤土に染みるひとの血のいろ。その場の光も音も香りさえも再現するシアターの中心で彼がかぶりを振った。見たくない、と言うようだったが刮目したままで。
 ドクター窪原、君は上流層の出身だから実感が薄いかもしれないが、世界はこの数百年ほど荒れる一方だ。災厄を撒き散らしては死んでゆく異能者たちの出現からずいぶん経ったが、彼等の隔離追放に成功したからといって壁の向こうの悲劇は終わっていない。それとも君、歴史の授業は不得手だったか?
 さて、それでは人びとの混沌を収束させ団結へ導くに最も有用なものはなにか。二つ答えていただこう。

「二つ……?」

 わからないとは言うまい。

「……共通の敵。あるいは、共通の、信仰対象」

 正解だ。さすが、天才児とうたわれただけある。ならばわかるはずだ。このプロジェクトが本当にただ悪しいのかどうか。
 彼は惨禍の像のただなかに立って、羞恥を感ずるいとまもなくわたしを見つめ、声を震わせた。

「まさか。神を……科学によって産み出そうとでも、おっしゃるのですか……?」

 肯定。もとより、ここはそのための機関だ。

「聞いていません! 寿命の……、人を生かすための研究だと……そう言われたから来たのに」

 わたしが映像を消し去ると、シアターはまた無造作にさまざま景色を明滅させる状態へと戻っていった。彼が震えていた肩からようやっと力を抜く。
 やはり、駄目か。
 では帰ってよろしい。機密を知った以上、無事にとはいかないだろうが、命まで奪うことはない。君ほどの頭脳を研究に迎え入れられなかったこと、まことに惜しく思うよ。

「待って! まだお聞きしたいことが」

 聞こう。

「……、」

 彼は気味の悪い景色を脳裏から追い出すべくゆっくりと呼吸を整えた。なるほどすっかり予想通りに、もう浮かれることも目を輝かせることもなくなって、しかしまだ失望を見せるほど落ち込んではいなかった。意志のある、強い目をしていた。

「あなたは、それで幸福なのですか?」

 そんな問いをかけられたのはいったいいつぶりだったろう。面食らって、回答までわずかばかり間が空いた。
 決まっている。
 わざわざいちばんポップな字体を選んで、もちろん! と表示させた。
 わたしはこうしていることが楽しい。生きることが、好きだった。だから被験者に志願をした。うすい翠いろの水のなかに監禁されていようと、世界のことならこの部屋が雄弁に語ってくれる。脳に外付けされたデータベースはしがない少女であったわたしをほとんど全知の者としてくれた。それほどの設備をわたしのためにこしらえてくれた君達にも感謝をしている。不自由もなければ孤独もない、人工の悠久だ。
 わたしはどうあれもうなかなかに永く生きた。そしてこれからも、この研究が続くかぎりは生きて、いつかこの世界に迷う人びとの指標となるやもしれない。
 君は協力してくれないようだがね。

「本当に……? あなたはそれでいいのですか?」

 ふたたび問うのならふたたび答えよう。もちろん! と。
 若い君に解るだろうか。わたしは、たとえば君にこうして出逢えたことや、こうして言葉を扱って誰かと話せること、なによりも今ここに生きていられることが、本当にうれしいのだ。一瞬一瞬のすべてがいとおしいのだ。こんな時間をいつまでもくれると言われて、どこに文句があるものか。愛する君たちが望むのなら、本当に神となることも受け入れよう。そのあかつきには、このようなかけがえのない喜びを人びとが素直に感じていられる世界を実現できればいいとは思うよ。――などと云うのは青臭いかもしれないが許していただきたい。この脳も二百年前の十五歳のままなのだ。
 わたしは、実験の反動であまり良くない目をゆっくりと開き、鮮やかでない視界に真っ直ぐ彼をとらえ、わざとらしくにっこりと笑顔を見せつけてやった。

「そん、な」

 彼は急に魂が抜けたようになってわたしの背後に並ぶヘルベチカを、それから微笑むわたしを見た。言い現せはしないなにか多くの感情を秘めた沈黙が過ぎる。わたしとてそうも黙られては人心を推し量ることなどできなかった(改良が望まれてはいる)のでおとなしく次の言葉を待った。
 すると、卒然、ジャパニーズ式の深いお辞儀をひとつ見せ、彼が叫んだ。

「……私は康也窪原、二八歳、若輩者ですが、どうぞよろしくお願いいたします!」

 どうも気が変わったようだった。研究に、助力をくれると。わたしは息ではなく特殊な翠の水を呑んで彼を見つめ、それから無性にうれしくなって破顔した。
 ああ。
 よろしく。
 壁面の白いヘルベチカではなく、口の動きでそう答えた。



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