■side A――final
木嶋さん! よかった、意識が戻りましたよ! 本当ですか。先生、ありがとうございます。
暗い水底にいるようなくぐもった音の洪水に、ゆらりと私の意識が立ちのぼる。薄目を開けば、見知らぬ狭い部屋、白のシーツに、壁際に立て掛けられた学生鞄。――病院か。理解するまでは、認識の数倍の時間を要した。
(なんだ……)
生きてしまった。
教室の窓から、薄汚れた愛読書を胸に抱えて飛び降りたこと。よく覚えている。混乱などするものか。私の脳内は至って冷静で、しかし非現実的な夢のすべてを信じこんでもいた。
リューはどうして直前になって私を殺したのだろう。あんなに自分を人殺しにするなと言って迫ってきたくせに。
まあ、今はそんなことよりも。
「本……は?」
「詩愛! 話せるのね。よかった」
「お母さん、本は? あの本はどこ? 壊れちゃった? 無事?」
全身がまったく動かせない。四階から飛び降りたのだ、いろいろと骨がやられているから固定されているのだろう。よって本を探すことも読むこともしばらくできないのだ。私は悔しさに歯噛みする。
「本って、あの、緑の?」
「そう……」
「待ってね」
視界の端で、母が私の鞄を漁る。
「うーん、ないねえ……」
「……そう。ならいい」
ないのなら、別にやることもない。また眠ってしまおう。そうして目を閉じかけたところで、母が「あんた、これ何?」と視界の真ん中に何かを差し出してくる。
手紙――なんだろう。几帳面さの伺える白封筒に、名前の類いは書かれていない。私が用意したものでもなさそうだった。
「……開けて、読んでくれる?」
放任主義の母も、こういうときだけは甲斐甲斐しい。快諾し、母は丁寧に封を切って中身を取り出した。
「何これ。悪戯かしら」
「見せて」
脆い木の繊維が見えている手紙サイズの板の表面に、削ったような字が綴られているのがわかる。たしかに少し奇妙だ。が、書かれていた短い文が目に入ると、すべてが腑に落ちる。
『Dear Scarlet
Is your journey still there?
Sincerely Pail Green』
親愛なるスカーレット。旅はまだ続いていますか? ペールグリーンより。
あまりのわかりやすさに笑ってしまったが、胸が痛いのですぐにやめた。肋骨がだいぶ折れているみたいだ。それにしても、あちら側との繋がりなんて完全に断ち切ったつもりでいたのに、まったく余計なことをしてくれる。
「悪戯じゃないよ。とっといて」
「そう、わかった」
リューは元気らしいし、心配することもなくなったので、本当にそろそろ眠ろうと決め込んで目を閉じる。
「あれっ!」
「ちょっとお母さん。院内では静かにしてよ」
「あったよ、本! でも今度はさっきの板が……おかしいなあ……」
「……まあ、いいよ。本、無事そう? 汚れてない?」
「あーうん、カパーはかなり黄ばんできてるけど……うん、普通に読み込まれた本って感じね」
「そう……じゃあいいや……ありがとう」
本が手元にあるという安堵に誘われ、意識は緩やかに落ちた。
またたくさん読み返して、一字一句、覚え直しをしよう。変わってしまった物語も、責任をもって見届けよう。心配して手紙なんか寄越さなくたっていい、あなたが私に死ぬなと言ったんだ。好きな人との約束くらい、きっと守れる。いや、一度負けた身だからわからないけど、少なくとも今はそういう気持ちだ。
退院したら、旅に出たい。遠くに行きたい。何者からも縛られず、ゆらゆらと自分の命だけを抱えて歩く。旅路には、居場所なんて必要ないから、私にはきっと向いている。そうやって生きてみたい。そうしていつかまた。
(あなたの物語はどうしても一冊ぶんで終わってしまうけど、私はあなたと同じ終わり方はできない)
(進むしかないんだ)
痛むばかりの眠りとともに、私は明日を待った。
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