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■side A――9

 彼の頬は冷たく濡れていた。触れられて初めて気がついたとでも言うように、ペールグリーンの目が見張られる。彼は言葉の勢いを収め、迷うように口を動かし、やがて閉じる。
 立て付けの悪い小屋に吹き込んだ寒風が、やけに鮮やかに通り抜けた。本に描かれた物語の季節は夏の終わりから秋口で――もし、その後の村人の消失が確定事項だったら、わたしたちが出逢った時点で何もかもとっくに遅かったんじゃないか。彼がわたしから力を奪い返しても、救うことは不可能だったんじゃないか。つまり、もう決定的に、物語は変わってしまっていた。わたしがここに迷い込んだそのときから。ならそれは、やっぱりわたしのせいだ。許されなかったのだ、彼と同じ世界に立ち、肩を並べるなんてことは。

「ごめんなさい……あなたを悲しませてしまって。あなたの力も、目的も、報われる可能性も、わたしが奪ったんです」
「……わかんねえよ。どうせ、行ってもどうにもならずに死んでたんだろ。今、俺は、生きてんだぞ。村のしがらみから、全部解放されて、生きてんだぞ……お前が言った話より、よっぽどいいだろ。お前の、お陰なんだろ」

 リューは泣き止まない自分に戸惑いながら言葉を並べた。

「こんな目的なんかないほうがよかったに決まってる。見返して、認めさせて……なんて、どうせできないくせに、そんなことで命を捨てるよりは」

 聞くほど自分の罪が露呈する気がして、耳を塞ぎたくなる。そうか、わたしが『リール』のシナリオを彼に伝えてしまったことが彼を苦しめているのだ。私にとってあの物語がどれだけ希望に満ちたものでも、彼にとっては絶望でしかなかったかもしれない、普通に考えればわかるはずのことなのに。
 本当に考えなしで自己中心的な行動だった。いまから考えたって遅いけれど。そんなんだからどこへ行ってもすぐに居場所を失うのだ。対して彼は、虐げられたことを決して言い訳にはせずに立ち上がろうとしたし、いまだってわたしを気遣う言葉を並べようとする、優しい人だから。根底が違う。そんなひとをこうも悲しませるばかりで――最低だ。本当に、こんな異世界までのこのこやって来て、わたしはいったい何がしたかったと言うのか。

「おい、シア。そんなに気にかかるなら……俺は谷底へ行くよ」

 ひとしきり泣いたリューが言った。
 一瞬、正気を疑った。谷底の秘密基地。あれはゴーストタウンに関する研究機関であり、『リール』ではこの村を敵と見なして攻め入ろうとした集団であり、リューが戦い命を落としたその場所である。そんなところへ、目的も力も失った彼が行ってなんになる。

「え……、まってリュー、どういうことですか」
「……どうって、そのままだろ」
「また、死ぬ気なんですか? あなたは異能者の生き残りです。そんなの見つかり次第殺されるに決まって――」
「馬鹿。お前に『許可』をやるって言ってんだよ」

 彼は袖で涙をぬぐうと、少なくなってきた旅荷物を漁ってひとり昼食の準備をし始めた。

「許、可……?」
「お前は形はどうあれ俺を生かしたんだ。それでいいだろ、って言っても納得しないんならもう一個こじつけるぞ。俺はお前のせいで旅に出た。おかげでさんざん死んだ町に出会して、挙げ句俺の村も死んだ。理屈が気にならないわけがないよな。だから、調べに行く。死んだら、まあお前のせいだが、やりたいことやった結果だ。別にいい。お前ならそういう『物語』は好きだろ?」
「なにそれ、支離滅裂ですよ」
「いいんだよ。お前はここに来てよかったんだよ。いいから納得しろ」

 わたしが何も手を出さないうちに、思いのほか手際よく食事の用意が進む。小屋の簡易キッチンは少し掃除をすればまだまだ使えるようで、リューは呆然とするわたしに背を向けて、保存食に軽く加工を施していった。
 何を言われたのかは、小屋の裏から引っ張り出した木箱にふたりぶんの食事が並べられた頃にもまだよくわからなかった。確かなのは、彼は早くも新たな目的を設定したらしいことくらいだ。――さすが主人公。
 彼の調理した食事は簡素で、だからこそ暖かく、また泣けてきた。

「力は、やっぱり返してくれ。もうお前が持ってても使わないし、使えないだろうから……まあまずはその方法探しだな……」
「……方法なら、わかりますよ」
「え! 言えよ」
「返す気なかったから……でも……」
「なんか問題があるのか?」

 わたしは口をつぐむ。
 夕陽色の教室で、秋風に揺れたカーテンを思い出す。開け放たれた窓。眩い緋。すべてを優しく包んだ浮遊感。視界を埋めた空に映える、ペールグリーンのブックカバー。私の最後の記憶は、今のわたしが振り返ってもつい昨日のことみたいだ。

「いいえ。ただ、わたしはいなくなることになりますが……、いいですよね」

 だって、わたしはたぶん、あなたの力を身に宿すことを通してこの世界との繋がりを保っているから――力を返す、ということは。



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