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■side B――6

 悪態を飲み込んで硬い木葉を避ける。もう、道はある程度踏み固められていて、進むに苦労することもさほどない。久々に見る気がする、人の手が入った景色に、内心では安堵と辟易がせめぎあっている。もう村に着くのだ。人に見つかったら、彼女のことをなんて説明しよう。まず話を聞いてもらえるかどうかも危ういが。
 彼女は山を歩くうち、疲労からか日に日に口数を減らしていった。笑顔を見せるのはかろうじて食事時くらいか。今はもう至って無口で、朝の挨拶からこの昼下がりまでほとんど声を聞いていない。彼女のことは苦手だ。喋らなくて済むのはありがたいことだった。
 旅の疲れと、常に苦手な人間と過ごしている精神的な緊張状態、これからを思う恐怖。そういうものの狭間で、俺は確実に嫌な状況へ向かって足を動かしている。
 ああ、ひとり旅は気楽でよかった。つい先日までの二ヶ月が、永遠に続いてくれたら、こんな思いをせずに済んだろうに……。
 ついに木々もまばらになり、きれいに均された道が続き始める。もうすぐ家屋が見えるはずだと思うと、寒さを助長するような冷や汗がこめかみを伝った。銀色の砂に並ぶ植物、直線的な用水路、淀んだ空気――慣れ親しんだすべてに追い立てられる感覚。俺はひとり旅のうちにすっかり弱くなったのだ、とはっきり自覚する。村の空気から一度でも解放され、その幸福を覚えた俺には、ただ戻ってくるだけのことが、こんなにも――苦しい。

(ここを出た頃はまだ、希望があると思ってたんだ)

 彼女の話を信じるなら、俺が何をしても、村人の忌々しさを変えることはできない。流れるまま彼女に従ってしまったが、それなら、俺はなんのためにここにいるのだろう。逃げればよかったんじゃないか。村に及ぶ危険も彼女も全部見捨てて、ひとりでいれば楽だったんじゃないか。
 考えるうち、歩みが止まってしまったことに、俺はしばらく気づかなかった。

「リュー」
「え、あ、ああ。なんだ」

 半日ぶりの声に顔をあげる。

「おかしいです、人がいません。確か、この辺りの畑はこの時間帯だと、メンテナンスに人がいるはずですよね?」

 お前はいったいどこまでお見通しなんだ、という突っ込みはしない。ただ言われた通りに見回せば、なるほど銀色の畑に人影は見られない。俺には安堵の方が大きかったが、彼女は表情を険しくして足を速めた。
 質素な家屋の前、遠巻きに足を止めた俺をよそに、彼女はインターホンを押し鳴らし、数十秒待って戸を叩いた。そんな作業を何軒か繰り返すうちに、お互い、この状況が読めてくる。彼女はどんどんと思い詰めた様子になって、ほとんど小走りで村中を回った。しかし誰にも逢うことはない。俺は、彼女が俺の家だった小屋の前で立ち止まったところで、戸に伸びた彼女の手を制した。

「……入れよ。少し休もう」

 鍵なんかかけていない。軋む戸を開いて数か月ぶりに自宅の床を踏む。景色は舞う埃のきらめき以外は変わりなく、壁際に毛布が二枚、カレンダー、反対側に簡易キッチン、あとは四方を木の板に囲まれただけの室内。荒らしようも盗みようもなく、もちろん誰かがいるわけもない。

「……いま、今は、もう冬、ですよね……?」

 二ヶ月前のままのカレンダーを前に彼女がつぶやく。その声は心なしか震えていた。問いの意味はわかりかねたが、聞き返すのも面倒なので、頷いておく。
 そして、長い沈黙が訪れる。普段の彼女ならば、このタイミングの休憩で、昼食にしようと言い出さないはずがないのだが、どうもそれさえ頭にないほど思い詰めているようで、うつむいた顔は蒼白だった。
 落ち着く暇など欠片もないまま自宅の床に座り込んで無音に身をさらしていると、徐々におかしさが込み上げてくる。

「……はははっ。そうだな。間に合わなかったな!」
「り、リュー……?」
「いいじゃん。いいんだよこれで!」

 おかしくてたまらない。つい先ほどの思考が完全に実現している現状が。
 人が消える。その現象の詳細は解明されていない。町を単位に、じわじわと、世界から人間は消えてゆく。俺がここを離れていたうち、たまたまこの村がその対象に選ばれたらしい、それだけのことだった。俺たちはさんざんゴーストタウンを利用して生き繋いだのだから、いまさら疑うことなど何もない。
 俺は忌まわしき故郷から逃げ切ったのだ――
 笑い続ける俺を、彼女はしばらく信じられないといった目で見ていたが、やがて壁際を離れ、つかつかと歩み寄ってくる。かと思えば、細い手が俺の胸ぐらを掴んだ。俺ははっとする。睨み付けるその目が、いっぱいに涙を含んでいたからだ。

「っ……リュー!」
「な、んだよ」
「ごめんなさい、わたしはっ。わたしのせいで、間に合わなかったんですよね!? あなたが命懸けで守った村なのに……っ」

 疲労の滲む渇いた頬に涙が伝った。
 ああ、くそ。いよいよ面倒なのが来やがった。

「やめろ離せ。俺は守ってねえし。守りたくもねえよ! 俺はお前の知ってる主人公じゃない!」
「嘘! 嘘吐き!」
「お前いい加減目ぇ覚ませ! 俺はお前の思うような人間じゃないんだって! 村を守ろうとしたのは、別に、やつらを見返したかっただけなんだよ! やつらがいなくなったんなら、もう……、いいんだ!」

 二人ぶんのわめき声が小屋に飽和して、冷ややかな空気がかすかに震える。この小規模な歪みを知る者は、この村にもその外にもいない。そんな漠然とした孤独感が、言葉の残響に乗ってふいに胸を締め付けた。

「だったらっ。あなたがさっきから泣いてるのは、なんなんですか!」



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