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■side A――7

 たまたま見つけた保存状態の良い食材を、使えそうなキッチンを見つけて調理した。こう何日も温かいご飯が食べられるとは、少なくともここ二ヶ月ではそうそうあったことではない。完成した食事を前に思わず長く合掌したわたしを、リューは不思議そうに一歩後ろから見ていた。
 まずは食事をしないと何事も始まらない。かなり強引にリューを納得させて戻ってきたわたしは、ひとまず何も告げずに昼食までを過ごしていた。あれからすっかり頭の上がらなくなったリューは静かで、会話はぐんと減っている。食事の準備が整った今も、わたしの向かいに座ったきり無言で、何かを言いたいような言いたくないような、微妙に困り果てた様子で大人しくしている。

「さて。リュー。まず、あなたから聞きたいことはありますか?」

 一応ひそかに手を合わせ、一口目を飲み下してからわたしは口を開いた。

「……お前……、俺のことをどこまで知っている」

 さすがだな、と思う。彼は頭がきれるから、多くを語らなくてもそこまでの想定はついてしまうのだろう。
 面白くなってきた。わたしは微笑んで、硬い肉を切り分ける。

「まあ、あなたが死ぬ気だということはわかりますよ。力は寿命を削る呪いのようなもの。それが『どうしても必要』なんて言われたら、誰でも邪推はできますね」
「そこまでわかってんのに、お前がその呪いを俺の代わりに抱える義理、やっぱねーだろ」
「さあ。わたしが『正義感の強い人』なら、救える命は救いたい、かもしれませんよ?」

 一口サイズの肉を口に放り込むと、それだけで旅疲れが治りそうな気がする。うん、調理は久々だったが、ちゃんとおいしい。リューも喋りながらだがきちんと食べ続けている。感無量だ。

「正義感の強いことなかれ主義ってなんだよ……」
「ひどっ! それは偏見です。まあ、違うことは認めますが」
「じゃあ、なんでだ……」

 粗末なスープを腹に収めると、ほんのりと身体が暖まって口許が緩む。
 いやあ、最高です。話題がこんなに暗くなければ。

「あのねリュー、わたし、記憶が戻ったんです。あなたの暴行現場を見て、ね」
「え……」
「安心してください。二ヶ月より前のわたしは確実にただの人間でした。いまわたしが持っているこの力は、あなたのもので間違いありません」

 記憶の話は嫌いだ。記憶なんて、証がなくなれば、徐々に薄れてゆくのだから。安心を求めて視線を上げると、食事の手を止めたペールグリーンと目があった。逆効果だった。わたしは息苦しさを感じる。褪せたその色とざらついた感触が鮮やかに蘇る。いまのわたしには存在しない、宝物の過去だった。一言一句、たぶんまだそらんじることは可能だろうが――この生活が続くようでは、すぐあやふやになってしまうだろう。

「お察しの通り、わたしはあなたをよく知っていますし、だからこそ、あなたに死んでほしくないと思っています。ですが、あなたの目的の重大さも理解しているつもりです。だからわたしが代わりにやると言ったんです」
「……話が見えない。お前とは谷で初対面だ。どこに接点があった」

 理解に苦しむ、と顔に書いてあるリューは、料理の残りを一気にかきこみ咀嚼した。ああ、もったいない、とわたしはかすかに落胆する。だが、完食してくれたのだと思うと、嬉しさが勝った。
 わたしも食事が終わるまでは黙ることにした。屋内特有の耳鳴りさえ誘うような静寂をふりきり、ゆっくりと食べ終えて、居心地の悪そうなリューに向き直る。

「『リール』。それがその本のタイトルで、主人公は年若い少年でした」
「……本?」
「彼は幼い頃から虐げられて育ちました。親は金を持たせてくるだけの存在で、話を聞いてもくれない。それ以外の人間に至っては、会う度に罵倒され、やがてそれは暴力へ変わっていきました。彼はずっと生きることに閉塞を感じていたんです」

 ペールグリーンが、揺れた。

「けれども彼は、自分を苦しめた周囲の人間を救うことを決意しました。命を犠牲に、です。自分が命を懸けて彼らを救うことで、見返したい、自分を罵倒したことを心から後悔させてやりたい……そんな気持ちからでした。そして、彼はそれを成し遂げ、命を落とします。誰もが少年の死を讃えましたが、誰も、過去の彼を自分が苛めていたことを気にとめませんでした。結局、彼はみなの都合の良いように生きて死んだだけだった」

 語り終え、二人ぶんの食器をキッチンに運び蛇口をひねった。じゅうぶんに皿が浸ったところで水を止め、どうせ戻らないから洗いもせず放置して、振り返る。少年はうつむいていて、表情がわからない。

「わたしはその主人公、大好きなんですよ。彼はなにも誰かのために、わざわざ都合よく生きてたわけじゃないでしょう。わたしなら折れてしまうような閉塞を彼なりに打ち破ろうとして、彼の意思で命をかけて戦った。かっこいいと思うんです。わたしもそうありたいなって。彼の最期が報われなかったことだって、きっと、彼がもしまだ生きていたら跳ね返せた困難なんじゃないか。また進もうとしたんじゃないか。そう、思えてならないんですよね」

 脳裏に記憶がはじける。頁を捲る音、渇いた紙のにおい、かすれかかった活字が紡ぐ言葉の数々、わたしの吸う酸素が存在しなかった教室、笑い声、薄汚れたブックカバー。わたしも進もうと思ったこと。折れてしまいそうなとき、何度も読み返して心を保った、わたしの宝物。

「だから、わたしは読者としてその姿を見たいんです。彼の生き方は、たぶんどんな状況でも変わりないでしょう。死なないかぎりは。……どうですか? じゅうぶんな理由にはなりませんか、リュー?」

 宝物はいま、形を変え――かつてないほど近く、目前にある。

「……シア。お前、何者だ?」
「木嶋詩愛。読書家で、いじめられっ子の、高校生です」

 笑顔を見せても、彼はもう怯えて身を引きはしなかった。ただ重い表情をのろのろと持ち上げ、鮮やかなペールグリーンをわたしの視線にさらした。



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