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■side A――3

 遠く、呼ぶ声がした。重い思考が動き出すより前に知覚したのは、乾いた砂の香りと太陽光の熱、硬い地面の感触。ゆるやかな目覚めとともにわたしは理解する。こりゃあまた行き倒れたか。薄ら目を開くと、淡い空色が視界いっぱいに広がった。その中心に、わたしを覗き込む人物があらわれ、笑顔を見せた。

「よかった。大丈夫? お嬢さん」

 恰幅のいい、初老の女性だった。また優しい人に出逢ってしまったのか。わたしは内心では少し困りながら、表ではまだぼんやりとしながら、あちこち痛む身体を起こした。
 見回せば、谷を抜けてさらに走ったところでかろうじて見つけた小さな村の片隅だ。整備のあまり行き届いていない土の道路がまばらに並んだ家屋を結ぶ。その道端に、わたしは無様に転がっていたようだ。
 上着にこびりついた砂を払い、目前の女性に頭を下げる。

「起こしてくださってありがとう。この村の方ですか?」
「ええ、そうなの。あなたは? 外の人? どうして倒れていたの?」

 立て続けに問われ、わたしは焦って寝起きの頭を回す。

「わたしは旅をしている者です。あの山の方から来たんですが、お恥ずかしながら疲れてしまったみたいで」
「山から? それは大変! あの辺りはしばらく町もないでしょう」
「そうなんです。それで途中で食料が尽きてしまって……あっ。そうだ、この村で食料が買える場所、ありませんか?」

 女性は突然の問いに目をしばたたく。それから一瞬だけ考え込み、なにかを閃いたように威勢よく手を打った。

「なら、うちにいらっしゃい!」
「え?」
「あのね、ここは農村だから、食べ物を買ったりはしないの。店も宿もない。みんなの畑から少しずつ貰って、みんなで食べて暮らしてる。だから、うちにいらっしゃい。お風呂も貸してあげる。その代わり!」

 きらきらとしたやけに楽しそうな目に迫られた。

「そ、その代わり?」
「外のお話をしてちょうだい。ここね、辺鄙だから、ニュースも全然入らなくて、みんな聞きたがると思うの。それと、できたら畑も手伝ってくれないかしら」

 ……わたしは、断る理由をひとつも持ち合わせていなかった。なにはともあれ食べ物を得ることが先決だ。他はなんだっていい。たとえ大人数に囲まれて話をするなんて大変に面倒な展開になろうとも、背に腹は変えられないのだ。
 むろん、頷いた。
 女性は輝くように笑んだ。

「旅人さん、お名前は?」
「わたしは……」



 数十分後。わたしは昔ながらの四角い食卓に向かっていた。
 ……いやあ。
 この感動を言い尽くすには数百字を要する。
 そもそも、わたしが山越えを決意したのは、あらかたの町を見て回ってもほとんどがゴーストタウンで、遺された食料を漁るくらいしかできることもなく、この旅に行き詰まりを感じていたからだった。つまり、わたしはもうかなりの間、人間と顔を合わせて食事をするだなんて贅沢なことは経験できていないことになる。冷たく硬い乾燥食品かピクルスしか食べられない日々が何十日と続いていたのが、いま目の前にあるのはほくほくと湯気を立てる新鮮な野菜と肉だ。生きていた村を見つけただけでも儲けものだと言うのに、こんな……あぁもう。口許がゆるゆるです。

「奥様、本当にありがとうございます。まさかこんなに暖かい食事をいただけるなんて、わたし、嬉しくて……」

 女性はころころと笑った。拾った命は大切にしなさいね、その最初の一歩は美味しい食事からだよ、と。まったくその通りですねと返した。これでこそ谷に飛び込んでまで山を越えた甲斐があったと言うものだ。
 促されるままに祈りを済ませ、獲物にありついた。
 語彙は消えた。
 美味しいいいい。
 現場からは以上です。
 ――後から聞けば、この女性の料理は不味いと村の中でも評判だったらしいが、旅路で鍛えられたわたしの貧相な味覚の前ではそれも霞んで消えていた。女性のほうも、わたしの反応は珍しいと同時に嬉しかったようで、その次の日もしっかり腕にふるいをかけてくれた。嬉しい限りである。

「シアさん」

 食事が終わり、お風呂をありがたくいただいて髪が含んだ砂を落とすと、しばらくして女性がわたしを呼んだ。

「あ、はい!」
「どのくらい滞在する?」
「滞在、ご迷惑ではありませんか?」
「とんでもない! 畑も手伝ってくれるもの、私はずっといてほしいくらいだけど」
「よかった、ありがとうございます。そうですね、山越えの疲れが癒えたらここを出ます。たぶん三日くらい」
「そう、三日。じゃあ明日、みんなをお呼びしてもいいかしら。旅人さんなんて珍しいから、飛び付かれるかも」
「もちろん歓迎しますよ。わたしは廃墟ばかり歩いていたから、社会のことはあまり詳しくないかもしれませんが」




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