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■side A――1

 橋が壊れていた。
 季節は秋の暮れ。切り立った岸壁がふたつ、ぎりぎりぶつからないくらいの間隔で延々と続く荒涼とした山岳地帯には、深く下方へ吸い込まれる風の音、そして木材の老いた悲鳴だけが存在した。谷の対岸まではざっと10m、同じ長さの吊り橋は、そのまま対岸に片手でぶら下がって揺れている。ぎし、ぎし、と。
 唖然として静寂に耳を澄まして数分。ひときわ強い風に煽られた上着の裾を直すと、わたしはやっと思考がはっきりしてきた。
 まずは淀みなく鞄を下ろした。つねづねの中身の大半は食料だが、いまは外布がたわむほど空かすかで、どう見直しても数日分が限度といったところだった。そして、いままでの道程を思い返し、再び壊れた橋を睨む。

(……帰っても、食料はない。だったら)

 眼下の暗闇を見つめ、深く息を吸い止める。本能的な恐怖を、徐々に酸素を失いながら紛らしてゆく。もう苦しい、胸が潰れそうな感覚、狭まる視界、そんな極限に達するまで数十秒。まだ息は吸わない、あと三秒。のち、わたしは谷底へ身を投げた。
 解放された肺が収縮し、むせ返る暇もなく酸素を取り込みはじめる。すべてが、真っ白に、塗り潰され――停止した。
 引力までもが止まっていると気づくまで、どれ程かかったかは、謎だ。
 あれ。
 眼下の暗闇、上方からは光。その比率が変わらないことに首を傾いだところで、光とともに、声が降った。

「いま助ける!」

 まだ少しちかちかする視界は自然、声の主を探した。そろそろと顔を上げたわたしは、その認識より先に安堵を覚える。なぜならその色。淡い、ペールグリーン。目が合うと、その人物は一息にわたしを引っ張り上げる。
 ぐるり。土のにおい。踏ん張りきれなかった救世主が隣に転がっていた。
 状況理解――なるほど、わたしは正義感の強い人間から事故で落ちたものと勘違いされたようだ。面倒なことになった。

「……悪い、大丈夫か?」

 身を起こしながら、ペールグリーンが言葉を発した。
 わたしは立ち上がり、彼の姿をまじまじと見る。人型をしている。わたしよりわずかに背が高い、少年、だろうか。背には大きな旅荷物を背負っている。それにしても、その髪の色はなんだ。睫毛まですっかり同じ色。地毛には違いないが、非現実的にもほどがあって然る。

「あなたは生きている人間ですか」

 思ったことが、そのまま声に出た。
 彼は一拍の間を置いて息をつき、答える。

「むしろ、違うとしたら何だよ」
「アンドロイドとか」
「あんどろ……?」
「いえ、すみません。ぶしつけでした。助けてくださってありがとうございます」わたしは愛想笑いひとつ、頭を下げた。「でも、助けていただかなくてよかった」

 彼が白い顔に困惑を浮かべる。

「では、そういうことですので」

 わたしは今度こそと足を踏み出した。人から逃げるという目的さえあれば、心の準備などせずとも簡単に踏み出せる一歩だった。今度こそ、抵抗なく、下方からの風に包まれる。唖然と困惑を足して割ったような少年の表情が見える。ペールグリーンの残照が目に焼き付く、折れそうな加速度。光が遠退く。目を閉じる。
 もしも、わたしがもっと悪意を持てたなら、あの旅人から食料を奪ってこの谷に突き落とし、長らくかけて別の道を探したのだが。あいにくわたしにそこまでの根性は備わっていなかったのだ。わたしの管理の甘さで、食料が尽きかけている。そんなことで他人様に迷惑をかけてはいられない。ましてや、あんな、見ず知らずの人間を咄嗟に命懸けで救えるようなきれいなひとなら尚更だ。

(困らせたなら、ごめんなさい)

 内心でつぶやき、自由落下に身を委ねる。



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