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 上方からの光が、幾筋も降りて、その空間だけが森から切り取られたように明るかった。眩しさに目が眩み、景色はまだ見えず、しかし青謐な空気だけが、わたしたちを含めたそこに生きるものすべてを包み込んだ。
 強く、風が通り、目を瞑る。そして開いて、わたしは息を呑む。

「あ……」

 あれはなんだろう――樹木? ただしとても大きな。その葉はどうやら緑ではない。いや、あれはたぶん葉ですらない。花? あんなに大規模に咲くの、花って?
 純白の花弁を全身に巻き付けて、輝く空いっぱいに手を伸ばしたその大樹のことを、わたしはどうすれば表現できるだろう。きっと既存のどの言葉もそぐわない。あえて言うなら、神様に出逢ったような感覚。疲労困憊の四肢からするりと力が抜ける。倒れこみそうになったのを、そう、いつものようにリオが押さえてくれる。
 望郷に思いを馳せると、急に、凍りついていた感情が溶け出して、わたしは数ヵ月ぶりに涙を流した。もう羞恥の念もない。見られていても、気が済むまでは泣く。自然とリオにすがり付く形になる。子供に返ったかのような気持ちでそうしている。意識は過去をめぐる。仄青い金属に囲まれ笑い合った日々のこと。だからこそ、だからこそ未来の存在に気がつくのだ。わたしの歩んできた道が、足を棒にするほど過酷だったこの道が、こんな景色に繋がっていたと思うと身体が震えた。
 それなら――迷うことはないはずだ。あんなに後悔と罪悪感と無力にまみれて生きてきた出来損ないのわたしでも、こんな場所に辿り着けるのなら。
 そうか、そうなのか。
 わたしはようやく答えを見つける。
 希望とは、どこにあるかはわからないのだ。
 誰かの目指す場所、望む場所が、希望となるかどうかなど誰にもわからない。絶望にまみれた道を歩んでいたのに、急に希望に出会ってしまうことなど、きっとありふれている。神出鬼没であり、運命的であるもの。それを希望と呼ぶのではないか。
 わたしたちには、未来がある――

「これは桜って言うらしいぞ。船ちょ……おっと。村長から聞いたんだ」
「さくら……」

 見上げる。それにしてもでっかいなあ、と。
 ひとひら、白の花弁が落ちて、わたしたちの目前に舞った。つまり、わたしとリオのちょうど真ん中に。花を追っていた視線が、途中から互いを見つめる視線に変わる。わたしは急に気恥ずかしくなってうつむいた。

「たっ、タンマ。待って、やっぱりムードいらないから……っ」
「なに急に元気になってんだよ」
「うるっさい笑うなっ。あと動けないから運んでいけっ。わかった!?」
「へいへい」

 よっこいしょとか年寄くさい掛け声つきで、わたしは抱えあげられる。いつぞや、毎日これをやっていた頃と比べると、彼は十も年を取ったような顔つきをしている。近くで見るとその変化がよくわかる。苦労させたのだ、他でもないわたしが。それなのに未だ甘えっぱなしなのが、やっぱりわたしはわたしでしかないなあという諦めを呼んでくる。しかし、もうそこで終わるわたしではない。
 あのさくらに出逢ったからには、未来があると悟ったからには、できることは惜しみなくやろう。でも、できないことはやらないよ? できないからね。その辺りをうまく取り成せるようになって、もうちょっとくらい自立して、あとは家族のみんなに頼ろう。そうやって生きてゆこう。場所はどこでもいいよ、船でも地上でも。ただ、わたしはわたしとして。過去から連なり未来に続くわたしとして、世界の一部でありたい。
 宴の喧騒が近づく前に、リオがぽつりと言った。

「子供できたら、名前は桜にするか」
「ぶっ……あのさあ、プロポーズすっ飛ばしてない?」
「前やったじゃん」
「断ったじゃん!」

 わあわあ言いながら進むと、人々の気配が近づいてくる。
 いまは四十と数人。これからもっと減っていく全人類。どこまで生き繋げるだろうか。いいや、どこまででも別にいいのだと思えた。やれるだけやって、だめだったらそれでもいい。ただ、ひとつ言えることがあるなら、来年もまたさくらを見たい。憔悴しきってしまったミヤにも、このひとつ後の世代にも。命よりも希望を伝えてゆきたい。こんな気持ちははじめてで、穏やかで、でもやっぱり苦しかった。
 森を抜け、開拓地へ戻り、さらに会場へ戻ると、一目散にミヤがこちらへ駆け寄ってくる。必死の形相にリオが思わず身を引いた。そろそろ宴もたけなわのようだし、知らず知らず時間が経っていたらしい。

「遅いよ。……死んだかと……」
「俺がいて死なせるわけねえだろ」
「っ……」

 つい赤面してしまったわたしに、ミヤはぱちくりと目をしばたたく。驚いたようではあったが、聡明な彼の察しは早い。

「……ああ、プロポーズでもしてきたの?」
「いや、そのさらに上」
「おのれ十歳相手に何を言いだすかっ!」
「怒るときの口調どうにかなりませんかカナさん」

 なりませんよ。
 こんな雰囲気で話ができるなんてあまりに懐かしい。みながそう思ったようで、声を合わせて笑った。ああ、よかった。わたしたちはまだ空っぽではなかった。働いて働いて疲れきって、言葉も感情も去ってしまったと思ったけれど、ちゃんと戻ってきてくれた。
 リオに合図して地面に降ろしてもらう。ぎりぎりの体力で立って、わたしはミヤに向き直る。

「ミヤ!」
「なに」
「誕生日おめでとうっ!」
「それ三回目だよ」
「も〜照れなくたっていいんだよ? あと、これからもよろしく!」

 これから。
 その言葉に、ミヤはわずかに戸惑って、やがてひとつ頷いた。

「……ありがと」

 切なそうに紡がれた感謝が誰へ宛てたものなのか、それはどうも定かではなかった。
 あえて言うのなら、世界へ――



(夜明けが来るまでに)

(どこまでの旅ができるだろうか)




――Blossom for Ark (了)



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