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 嫌であろうともその日は来る。
 船は、地上に着陸した。
 感じたことのない腹の底に響く衝撃が、船上のあらゆる物質をぐらぐらと揺らした。開かれるのを見たこともないハッチが、住民全員が見守るなかでゆっくりと開いていった。吸ったことのない繊細で温度を秘めた空気が、命のある風がわたしたちを出迎えた。存在の概念さえもわかりかねる巨大な天井が上方をすっぽりと覆っていた。よくわからないふわふわしたものが遠くにただよっていた。
 あれは空と言うのだそうだ。
 あらゆる葛藤を脇に置いて、まずは例外なくすべての人が目前の「自然」に圧倒された。機械がない。金属がどこにもない。動植物が奏でる壮大なる音楽を、どこまでも千年先まで聞いていられるような錯覚が、わたしたちをまるごと呑み込んだ。極めて原始的な、遺伝子レベルで組み込まれた信仰心は、理性の上での戯言をまっさらにして胸を高鳴らせた。

「ちじょう……」

 知らなかった。
 空気ってこんな味がするんだ。命ってこんな音がするんだ。土ってこんなにおいがするんだ。風は世界の呼吸みたいだ。
 涙を流す者が少なくなかった。わたしは少しの間は意地で抑えていたが、そのうち我慢できなくなって皆と泣いた。生きている! 世界が生きているんだ! たったそれだけのことに打ちのめされ、船への感傷がやけに痛んだ。血を吐きそうなくらい。苦しくて、泣いた。
 こんな広大な場所に、わたしたちの未来なんか――
 踏み潰されて終わる虫けらのようなわたしたちが、安全に過ごせる空間など、この世のどこにも存在していないではないか。
 ミヤが、遠く、絶望したような目で空を眺めていた。

「僕に世界のことは、わかりっこないよ」

 僕だけじゃもう無理だ。全員が学んでゆかなければ、とうていのぞみなど掴めたものではない、と。
 そして、怒濤の日々。
 しばらくはこれまで通りに船をねぐらにしながら、ただただ畑を耕して、耕して、耕して。水を汲んで、汲んで、汲んで。いくら働いても終わりが見えない、途方もないテラフォーミングだ。生活は激変した。食事は各自が摂れる時に摂るだけで集まりはない。行水時間だけが管理され、他はひたすらに働くだけだ。わたしが人と話すことはほとんどなくなった。暇が取れないのもあり、疲れはてて声も出ないのもある。リオだけはまれに様子を見に来るが、話せる余裕がない。
 そんな中で、ミヤが十歳の誕生日を迎えた。
 さすがに祝おうという話になって、その日は皆が労働禁止とされた。
 すっかり口をきかなくなったわたしだが、世話係だった名残から、音頭をとることになる。ミヤと並んで焚き火の前。採れたての食材でできるだけのものを作って、水で乾杯する。見るからに憔悴したミヤは脱け殻のように焔を眺めていた。

「それでは……ミヤ、無事に十年も育ってくれてありがとう。おめでとう」

 これからもよろしくね、と付け加えるのは、怖くてできなかった。久々にカナの声聞いたよ。ミヤはそう言ってちょっとだけ楽しそうにした。
 宴はわたしたちを置き去りにしてなかなか盛り上がった。他愛ない馬鹿話に花を咲かせて笑いあう人々を、焔の揺らめきを通して淡々と見ていた。わたしは物思いに沈む。ねえ、ほんとうにこれでよかったの。地上は別に悪いところではないけど、良いところでもない。わたしたちが住むにはちょっと、いやかなりの努力が必要になる。そんなに頑張らなくたって、船で暮らせばもっと楽でいいはずなのに。どうしてこんな荒れた土地で、生きてゆこうとするのだろう。自然は四十と数人の命を受け入れてくれはしないよ。わたしたちが自然に切り込んでいくしか方法はない。そんなの、苦しくないの?
 味のわからない食事で腹を満たした。あ、そうだ、ミヤと話さなきゃ、という意識がふっと湧く。

「……ねえミヤ」
「ん?」
「誕生日おめでとう」
「もう聞いたよ」
「そっかあ……」

 なにを言ったらいいか、まったくわからない。以前までのわたしは、もっと跳ねるように色々と話せていた気がするのに。いま言葉をひねりだそうとすると、それらは胸につっかえて痛みを生む。それでも、なにか。なにか言わなくちゃ。そういう焦りばかりが蓄積する。

「あ、の、調子、どう? 元気?」
「うん」
「背とか、伸びたね。さいきん、見てなかったけど」
「そう?」
「そうだよ……」

 痛い。
 泣きたい。
 なんで、こんなおめでたい日に、こんな気分なんだ、わたしは。
 枯れかけた地球から、残りわずかの資源を掬い上げ、それらを大切に消費して数十年。こんなにも生き延びたわたしたち、きっとすごいんだよ? こんな時期に生まれた少年が、病気もせずに十年も育ったんだよ? その十年の大半を占めた彼の生きる意味そのものが失われて数ヵ月。それでもどうにか生きたのに。何が悲しいっていうの。

「……カナ」
「ん……なに」
「無理しないで」
「無理言わないで」
「地上、やっぱり気に入らないの?」
「……うん」
「そっか」

 ぽつりぽつりと交わした言葉が途切れ、宴の喧騒もこの耳からは遠く、パチパチと焔の弾ける音だけにしばらく聞き入った。やがて、そこに土を踏みしめる足音が入ってきて、わたしはゆっくりと顔をあげる。
 働くだけで口もきかない、にこりともしないわたしに近づこうとする人間なんて、ひとりしかいない。予想通りの見慣れた顔もまた、あまりうれしそうではない。

「ミヤ。あっち行ってろ」
「ごゆっくり」

 たった数ヵ月ですっかり大人びたリオがミヤに言いつけると、ミヤは軽く肩をすくめて去っていった。わたしはその背を見送ってから、あらためてリオのほうを見る。でも目は見られない。怖いから。
 パチパチ。またその音だけに聞き入っていた。リオが話を切り出す気配はなく、またわたしにも出せる言葉がなかった。少し前までぽんぽんと軽口を叩きあった仲だというのも遠い昔のように思える。あの頃に存在した安心感はいっさいが消え失せている。今は、少しの不安と恐怖、多くの虚無感がわたしを満たしている。今のわたしが目にして安心するのは、安全な食料と冷たい金属くらいのものだ。
 息苦しさに膝を抱えた。

「……かえりたい……っ」

 はたしてそれは声として形を成していたのかどうか。
 わからないが、リオが口を開いた。

「今日しかないと思ってた。おまえ働き者だから」
「……なにが?」
「連れていきたいとこがあるんだ。立てるか? 立てなきゃ背負ってくぞ」
「…………」

 黙って立ち上がると、当たり前のように手を引いて彼が先導した。思わず振り払いそうになったが、握る力の強さに負けた。疲れきった足を立たせてひたすら前へ。それでもう精一杯で、手を引かれていることなどすぐに気にならなくなる。疲労は毒物であり薬だ。身体を蝕むが、なにも考えなくて済むぶん心が楽になる。
 宴の中心からどんどん遠ざかり、焚き火の煙もにおわなくなって、まだまだ行って、開拓地の外。鬱蒼とした森を掻い潜り、いよいよ足の感覚が消えてきたところで、ぱっと視界が開けた。




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