[携帯モード] [URL送信]

 



 直線的な川端。一寸の狂いもなく一定量の水流を抱える用水路のすぐとなり。わたしはそこにうずくまっていた。
 ここは畑だ。住民の食料をまかなうために毎日丁寧に手入れされたみずみずしい野菜がいつでも採れる。さらさらした銀色の土から芽を出した緑は、人間のことなどまったく関係ないというようにのびのびと葉を広げて楽しそうだ。彼らをながめていると、ちょっと心が安らぐ。最後には食べちゃうけどね?
 皆はまだ食堂で言い争っているのだろうか。真っ先にここまで来て、ずっと葉っぱをつついていたのに、一向に人の現れる気配がない。それが好ましいのかつらいのかも、今のわたしには判別できなかった。
 ――地上に帰る。
 船長の言葉が脳裏に焼き付いてくらくらする。
 わたしは考える。
 人類の母なる星、だなんて、そんなこと言われたって実感が湧くはずもないし、わたしはやっぱりここが好きだ。お父さんもお母さんも死んだし、ほかの人達だって、体調を崩すともうあっけないものだ。もっと人が生きていられる世界がかつてあったのだろうということ。それはわかっているし、そこがわたしたちにとって望ましい場所であるのは言うまでもない。しかし、納得なんかできるものか。つらいことがある、なんて当たり前のことだ。うれしいことも楽しいこともある。わたしの中に残るそれらは間違いなくこの船とともにあった。この船こそが母だった。わたしが生きて積み上げたすべてがここにあるのだ。それらを捨てて、去らなければならないのは、つらいし、寂しい。それこそ、母が死ぬというのと、同じような思い。
 これとまったく同じ思いを――皆は地上に対して抱いたのだ。だったら、皆の地上に対する過剰な思い入れも、わかる。わかってしまう。

「どうしろって言うの」

 どうせ同じ思いをする人が出るのだから、多数派に従うべきだ。その理屈だけなら理解しなくはない。でも、地上に帰る? 帰るってなに? 帰る場所はここのはずなのに。それが、望ましい未来だって?
 ふいに、喉の奥が熱くなって、涙が込み上げてきた。葉っぱに垂れないようにすぐ身を引くと、そのままの勢いで足を滑らせ、重心が、用水路へ向かって傾く。

「うわっ、わっ、待って水は汚しちゃだめえええ!」

 なにせ誰もいないから、畑じゅうにわたしの声が響く。思考が高速で回り始める。景色の移ろいが急に減速する。ああこりゃあ何をどうしても落ちるなあ、という諦念が瞬時に弾き出され、もうどうにでもなれと目を瞑った。
 と、重力の猛威がぴたりと止まった。まったくもっていつものように。

「……え?」
「え? じゃねえよ気ぃつけろっ」
「わっ。リオ! いつからいたの!」
「葉っぱつついてたとこから」
「最初からなのか途中からなのかわかんないな〜恥ずかしー! でもありがとうっ。水汚しちゃうかと思った」

 こんな時でもいつものように明るく振る舞ってしまうわたしはおかしいのだろうか。それとも、リオがいるから安心したのか。

「ここにいると思って。合ってた」
「ミヤ……は?」
「部屋に帰った。しょげてんじゃね」
「大丈夫? 怪我とかしてない?」
「誰も子供様は殴らねえだろ」
「よかった〜」

 ミヤが無事ならひとまずよかった。しょげているのは、わたしも同じ。世話係だが、いまはとてもフォローなんてできない。
 泣き顔を見られたことにいまさら気がついて、わたしは慌てて涙を拭う。拭うのだが、そうするほどにますます涙が出てくる。ぼろぼろと。焦りにかられる。早く止めないと、体内の塩分が無駄に減ってしまうし、なにより恥ずかしい。
 なんでそんなじーっと見てるのさ、リオ!

「みっ、見るな見るな……!」
「じゃ他になに見るんだ。俺は葉っぱ見てもときめかないんだよ」
「うそっ。こんなに可愛いのに」
「意味不明」

 軽口は叩けるくせに。泣くのはやっぱりやめられない。わたしはとうとう笑顔を崩した。言葉にならないあれこれが喉に詰まって、呼吸が覚束なくなる。リオの手が背を叩いてくれる。余計に泣けるからやめてほしかったが、それを言うにも苦しさが勝る。
 世界が終わり――そして始まり――、または、続いてゆく日。
 それがきょうなのだ、と思い知らされる。
 わたしが生まれ、彼と出逢い、共に過ごしたこの船と、みなが目指した地上は、たしかに地続きの世界なのだと。リオがわたしを繋いでいてくれる限りは。もしも、わたしがここで積み上げたすべてが、あちらでも無駄でないのだとしたら。

「結婚するか? カナ」
「はいっ?」
「地上でさ。……スタートすりゃいいじゃん。終わっちまったら」
「……それっていにしえの死亡フラグ?」
「プロポーズのつもりですが?」
「えーっ。なんでこんな格好つかない時なのっ。わたしいま嘆き悲しんでるんだけど! 顔とかぐちゃぐちゃなんだけど!」
「だから泣き止みそうなこと言ってんじゃん」
「ムード皆無だよっ!」

 地続きであることだけが未来ではない。ただし、捨て去ってしまうことを希望と呼ぶためには、その先でまた何かを積み上げてゆく覚悟が必要。母が死んだら、その死の先でどう成長してゆけるかという試練が待っている。母の死を糧にして生きて、いつかそれも「よかった」と言えるように――? なんて、残酷な話。
 そうか。リオはここを去ることを認めているのだ。ここを去っても彼は彼のままで最期まで生きてゆく。その覚悟が、彼にはあるらしい。
 わたしには、なかった。

「お断りします」

 ばっさり言って、今度こそしっかりと涙を拭う。

「ええ!? うっそ。なんで!」
「わたしは繊細なの。もうちょっと大切にしてほしいの」
「してるよ精一杯全身全霊!」
「ああもう恥ずかしいから言うな言うなっ。いいか青年! わたしにはいまおぬしの求婚に気を払う余裕などないのだ。なぜかわかるか!」
「え……えーっと、引っ越し鬱?」
「んな単純なことじゃねえよばっきゃろー! とりあえずだな! わたしは……っ、ミヤの納得できる結果がほしい!」

 宣い、今度はふらつくことなく水路から離れ、金属のあぜ道を渡って畑を出る。唖然としながらもリオはついてくる。わたしはミヤの部屋まで走ると、リオの制止もむなしく、ノックもせずに戸を開いた。
 びっくと小さな肩が跳ねるのが見えた。薄暗い青い室内の端、デスク前。その手には教科書の束があり、もう片方の手にはナイフがあった。今にも教科書に向かって刃を突き立てようといった風に掲げられた手がふるえていた。自棄になって、でもなりきれなかったのか。すぐに察して、その背中に飛び付く。

「やめんかい!」
「いっ、痛いってば……カナ」
「ミヤほんとに無事でよかったあ〜逃げちゃってごめんね……!」
「え、ちょ、待って早い……展開が早すぎてついてけない……」

 肩にどついて教科書とナイフを没収した次の刹那にその細い体躯をぎゅっと抱き締めた。彼が勉強にはげむ姿勢、大人に立ち向かった姿勢、すべてがわたしにはまぶしかったから、そうせずにはいられなかった。子供は純真で高潔で愚かだ。おのが信じる正義をどこまでも疑わずして行く。かっこいいよ、ねえ、ミヤ。わたしは右も左も正義も悪もわからないの。自分のことさえ、疑ってばかりで、挙げ句の果てに逃げ出した臆病者だ。
 冬が過ぎて春になることを受け入れられるのは、またいつか冬が来るからだ。
 この「冬」は、過ぎ去ったなら、二度と来ない。
 わかってるよ、選択肢なんかあるはずもない。どのみちこの船はもう保たないのだから、地上に降りられると言うなら、そこに少しでも生き長らえる環境があるのなら、降りるしかないに決まっている。生きるためなら道を選り好みするわけにはいかない。ミヤもわかっている。わかっているから、無駄になってしまった自分のこれまでが悔しくて震えているのだろう。
 ようするに、現実を受け入れられなかったのはわたしだけなのだ。

「カナ、離して……リオがめっちゃ睨んでくるから離して……もう、いいから」

 必死の訴えに、わたしは長い抱擁をほどく。
 見やれば、決して明るくない顔で、ミヤはかすかに微笑んでみせた。

「地上に行ったら、また勉強することが増えそうだ。……やることは、変わらないんだ。誰も死なないようにするよ。いつか……」

 言い終える頃には、声は悲痛に濡れていた。船長に謝ってくる、と言って彼が走り去る。鋭いナイフと、使い込まれてよれよれの分厚い教科書の束がその場に残される。
 息が詰まる。何故だ。何故こうも物わかりがよすぎるのだろう。ミヤが受け入れれば、わたしも受け入れられるのではないか。そう思ったが、そんなことはありもしなかった。わたしがいちばん子供のままで、ずっと駄々をこねているのだ。
 呆然と、教科書のしわを見つめ続けた。
 納得できない。ミヤの勉強が水泡に帰してしまう。わたしの彼への憧憬も報われない。ミヤはあんなにがんばったのに。報われなくていいわけないのに。それを踏まえてまた新しく、なんて、やっぱり残酷すぎやしないか。
 リオの手が伸びたのを、ぱしっと払って睨み付ける。
 彼は何秒か驚いたように固まって、また何秒か黙り、それから軽く手を振って部屋を出ていった。




▲  ▼