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 どういう意味ですか?
 そう問わないで済ませるにはわたしの理解力は足りていない。が、住民たちは大半がその言葉をもう理解しているらしく、主だった反応は見せなかった。朝食前。いつもならぼんやりとしているはずの頭も冴えてくる。言葉を汲み取れはしないのに、人々の表情や息づかい、それがどんな感情のもとにあるのか、そんな情報だけはびりびりと知覚を震わせた。
 船長は厳かに口を開く。

「昨夜、もう私達が地上に降りられるという観測データが出た。船での生活は終わることになる」
「……旧式の世界に移住する、ということですか」
「そうだ」

 わたしは旧世界のことをよく知らない。わたしと、リオと、ミヤは。他の人は知っている。それを寂しいと思ったこともあったが、それよりも怖いと思っていた。旧世界とは、わたしから見れば、まるで船民にかけられた呪いだ。「旧世界のように生きられたらなあ」という言葉を、大人たちからどれほど聞かされて生きてきたことだろう。今、わたしたちが生まれ育ったこの船を否定されているようで、大嫌いな言葉。
 知りたくなんかない。知ったら、わたしはこの「世界」を嫌いになってしまうかもしれない。過去に縛られ続ける大人たちのように、明日のための今を生きられなくなるかもしれない。それが怖い。だからずっと知ることを避けていた。そのツケが、今になって回ってきたのだ。
 船長が言ったことをまとめるとこうだ。
 数十年前に起きた大災害で地上が滅んだので、人類がわずかにでも生き残るために、この船に必要最低限の生態系を移植し移住することを決めた。旧世界で厳正に選び抜かれた健康な男女と、それを取り仕切るための人間をひとり――つまり今の船長を迎え入れて、荒れ果てた母星を背にこの船のハッチは閉じた。きっと、永遠に。
 しかし、永遠ではなかったらしい。他の船民に農業や生活管理を任せ、船長はひとり、地上の観測を続けてきた。いつかまた住めるようになるかもしれない。そんな希望を、どうしてもいつまでも捨てられなかった。かつての同僚が栄養失調でばたばたと倒れてゆくほど、その希望は強まったのだという。そして、ようやく、人間が生存できるレベルの環境を発見した。
 わたしには――わからない。
 ここで生まれたし、ここで生きてきた。不幸など感じたこともない。ミヤがまっすぐに目指している未来だってある。ここがふるさとでは駄目なのか。どうしても、未来のない閉じた星に還らなければ気が済まないという大人たちへの苛立ちは氷面下で募る。それを表にあらわすことができるほど、わたしは身勝手でもないが。
 だが、ミヤは――違う。
 わたしの背後で話を聞いていたミヤが、がばりと前へ出て叫んだ。

「ふざけんなよっ!!」

 そのまま駆けていって、船長に掴みかかろうとするのを、脇にいたリオが俊敏に押さえた。動く的を止めるのは、さすが、お手の物だ。

「ミヤ、口のききかたが悪い」
「申し訳ありません。でもっ! なんでいまさら!」

 大人ぶっているが、幼い少年だ。その目にはいっぱいに涙を溜めていた。その反応を予期しなかったらしい周囲の大人がざわめく。わたしと船長だけがただ黙ってそれを眺めている。

「本気なのですか、船長!」
「ああ」
「じゃあ、僕の研究はっ。なんだったんですか!? 船がいらなくなるのなら、僕はなんのために!」

 この船というひとつの世界の終末。それは、この世界に生きる意味の喪失に等しい。
 たとえ、地上に戻ることを未来の展望と信じる者が多数派でも。ここにしか未来がないと信じるひとりにとっては、それは滅びでしかない。

「それは違う。ミヤ。地上は私達の未来だ。希望だ」
「僕は船の未来を目指してきました! 地上なんか知らないし行きたくもありませんっ」

 その言葉を皮切りに、食堂はいよいよ騒然とした。
 さながら宗教抗争だ。
 どちらの世界を信奉するか。どちらの未来を希望とするか。そんな、どうしようもない話で、まるで導火線に火がついたみたいに――
 謎の災害とやらで、こんなに少なくなったのに、人類はまだまとまらない。人はのぞみを求めるのだから。のぞみにこそ尊厳を見出だすのだから。それが傷つけられれば、こうなるのも当然なのか。
 ただひとり動かず、出入り口に立ち尽くしていたわたしは、よく知る皆の、生まれたときから共に育った家族たちの言い争いに背を向け、走った。逃げなければならない、と身体が訴えていた。ここにいてはいけない。心にひびが入る前に、逃げ出すべきだ。朝食は抜きかな、なんて呑気な思考がひとすじ過り、導かれるように秘密の通路に飛び込んだ。よくわからないがこの幾何学的な造形をした船には奇妙に張り巡らされた通気孔がある。這えば人ひとりが通れるくらいの細い穴。わたしだけが、わたしとミヤだけが、この迷路のすべてを知っている。ミヤが取り押さえられている今、わたしを追える者はひとりもいないはずだ。
 後悔が、どっと押し寄せる。わたしは卑怯だった。わたしよりよっぽど小さなミヤがあんなに勇敢に立ち向かったのに、わたしはただ尾を巻いて逃げ出した。ミヤが心配だ。小さな身体ひとりであんなことを言った。大人たちを激昂させた。世界のすべてを相手に臆しなかった。殴られたりしない? ――それはきっと大丈夫、リオがいるから。そんなさまざまな不安とこじつけが頭の中を満たしてぐるぐる回る。それでも這いずる手は止まろうとしない。
 仄かな青の光の中で、わたしは、生まれてはじめて孤独になった。




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