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  ――回帰

 わたしはなぜ、まだ死んでいないのだろう。そんなことさえわからない。
 歩き続けた。気を抜けばすぐさま発狂してしまいそうな、まっさらで景色の変わらない世界を、ただ無為に歩き続けてきた。
 だが、無為ではなかった。
 彼を見つけた。
 目的を、果たしたのだ。
 彼は多くの言葉を土に刻んでいた。風にさらされ見えなくなったものは不思議となく、ほぼすべての彼の言葉をたどり読むことができた。知らない言語であったために最初は苦労したが、基本はわたしの知るものと似ていたし、法則を見つけてしまえばあとは勘で解読できないことはない。百を越えたほどになるとすらすらと読めるようになり、じょじょにわたしが扱うことだってできるようになっていった。だから、わたしは戯れに彼の真似をした。数字と、言葉を。人々の跡の消えかけた大地に記した。そして彼がわたしの言葉を見つけてくれた。
 お互いにお互いの言葉をたどる。そうしていればいずれかち合うのは当然であったろう。
 地平線の向こうからかすかに人影を見いだしたとき、最初は信じられなかった。人なんて、もう、どれほど見ていなかっただろうか。ましてや彼だ。空色の髪に、わたしがかつて愛用していた帽子をかぶせ、ゆっくりと近づいてくる彼。表情は穏やかだった。声の届く範囲に入ると、彼はわたしのかつての名を呼んだ。
「フィロロ?」
「……ひさしぶり。ヴェント。変わらないね」
「どっちがだよ」
 からりと笑う彼は、兄と見まごいそうになるほどそっくりで、わたしは心を痛める。わたしは彼の兄その人でありながら、ずいぶん長いこと彼らの、自らの他人として振る舞ってきたのだ。だから、彼の変化のゆえんが痛いほどに理解できてしまう。
「わたしはけっこう変わったと思うよ。他の人とも旅をしたから」
「そっか。やっぱりあれはきみだったか」
「うん。いつ、気づいたの?」
「旅立つ前からかな? 砂埃の町にいたときすでにって感じだ」
「……ばればれじゃないか」
「当たり前だろー! 双子なんだから」
 ひとしきり話して、笑って、どちらかともなく肩を並べ進んだ。どこへ向かうかなどは言うまでもないだろう。けれど、もう、辿り着かなくてよいのだとも思う。わたしの、僕らの郷はここなんだからね。探し歩く必要はなくなった。
 喉の奥が熱を帯びる。僕は彼と一歩離れた距離を保ち、顔を背けたまま足を動かした。フィロロ、どうかした? そんな声が耳を打つ。耐えようとも思った。でもさ、ふたりぼっちで、こんな枯れた世界で、空腹で、足元も覚束なくて、これ以上なにかに耐えようなんてできるはずがないじゃないか。
 泣いた。
 二回目だね、と彼が言った。
「どうする。フィロロ? まだ旅、続ける?」
 立場がまるで逆転していた。僕が泣き、彼が笑って励まし、ひたすら笑顔を絶やさない彼を僕が心配する。
「どちらでもいい。もう充分だから」
「おいこら。あんまり弱気なこと言うなよ」
「……ごめん」
「行こうか?」
 手を引かれた。わたしが最後に見たそれよりさらに細く、骨ばった手をしている。昔はそうではなかった。僕らはもっと少年らしい、見た目からも快活さを窺い知れる容姿をしていたはずだ。記憶は幾度も重複したせいでいまだに色濃くしつこく残り続けている。それがつらかった。
 きみは強いね。
 きみは僕に何度かそう言ったことがあるけれど、もうわかるでしょう。本当に弱かったのは紛れもなく僕のほうだったんだって。過去にすがってしか生きられず、いや、死んでも過去にすがり続けた僕と、僕や自らの死を受け入れて前に進んだきみ。尊敬するよ、本当に。だから僕はもう過去には戻らない。きみが終わりにしようと言ってから一度は戻り、そこからまたここまで未来へ身体ごと飛んできたのだけど、その時、既に決めていた。これで最後にしよう。記憶が薄れるほど続けてきたわたしの旅を。
「ねえフィロロ。きみはいつのきみ? きみがここへ来ていたら、僕らの旅は変わっているんじゃないの?」
「ううん。変わったことはないよ。わたしがいくら飛んで、どんな行動をしても、無理やり死んでも、変わらなかった」
「そうなんだ。なんでだろう」
「わからない」
 世界の真実はあいまいなまま。
 構うものか。
 僕らがここにいる。そのたった一つが確かであれば。
「あっそうだ! ねえねえフィロロ、書こう? 言葉を」
 彼は楽しげに、土を指し示す。僕は少しだけ面食らって、また泣きそうになって、あわてて笑顔をつくる。
「……じゃあ、これで最後にしよう。もう、お互いの言葉はお互いで聞けるからさ」
「うん!」
 辺りの石を拾い、おもむろに赤色の土に当てる。
 その刹那、手元が暗くなる。
 え、どうして、と顔をあげれば、隣の彼が目を見張って西を見つめているのをまずもって捉える。咄嗟に、僕も振り向き、西を仰いだ。思わず息がつまる。それまで考えていた言葉などは衝撃にかき消され、遠く地平線に見いってしまう。僕らはもはや言葉を交わさず、しかしこの心は通じていると信じられる。
 沈みかけたままで留まっていたはずの陽が――沈んでゆくのだ。
 空を染めていた黄金が褪せ、紫に変わり、完全に陽が姿を消すと星明かりとともに夜色が荒廃した更地を満たした。ああ、星が、息をしている。世界が生きている。無性に心が震える。僕らはずっとひとりではなかった。
 西のきわの明るみが完全に消えてしまうまで、僕らは黙って佇み、空を見つめた。夜が来ると、ようやく息を吹き返したように視線は西から離れ、たがいに顔を見合わせた。同時に笑みを浮かべ、そのまま視線を足元へ。持ったままだった石で改めて土をなぞり、最後の言葉を書き記す。

 世界に夜が来た。

 僕は石を彼に手渡す。彼が頷き、続きを綴る。

 やがて、新しい夜明けがやって来る。



空色の旅路を知る者は 了
2017年7月7日

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