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  ――言葉

 新しい世界でも生きていける? それはあり得ないだろう。やがて人類は絶滅する。地球も死ぬ。もしも、もう一度宇宙ができたら。そんなことは考えても無駄だ。僕がそれに関わることは一生涯ないんだから。僕がかかわるべきは、この世界。滅びる未来を予測し防ごうとして失敗した、瓦礫ばかりの更地の世界だ。
 きみが死んでから、黒い海原を見送ってから――かなり時を経たような気はするのに、まったく人に会わない。ついに僕は最後の一人になってしまった? わからない。未だにわからないことは多いんだ。
 最近は夜が来なくなった。相変わらず草も動物も少ないうえに生活リズムが狂い、体調を崩している。
 僕も永くないんだろう。
「あの丘を、探そう」
 ぽつり、つぶやく。口癖だった。今の僕の旅の目的。生きる建前だ。
 きみが眠る丘。
 あの丘で、僕はゆきたい。
 今まで歩いてきたと思われる旅路を、ほとんど勘にしたがってひた歩く。周囲の景色が変わることはそうそうない。瓦礫を見かけることも少なくなった。全方位すべてがステップ地帯のようになって、それでもどちらに進むかを選び歩くなんて無謀にも程があるのは僕だってわかっている。しかし迷うことは案外少なかった。僕らは砂埃の町を飛び出したころからずっと同じように道を選び、進んできたのだ。原則として、西へ行く。夕陽のかがやくほうへ歩くのが決まりだった。今では太陽は動かなくなって、世界はずうっと夕暮れのまま止まっている。だからとても進みやすい。おおまかにでも戻るには、ただ、光に背を向けて足を踏み出せばよかった。形の変わらない自分の長い影が足元から眼前へ伸びる。そいつを踏んでいくだけの作業だ。
 夜が来なくなってから、進みやすくはなって、けれども身体は衰えた。プラスマイナスゼロだ。僕はひとりになってからこのかた、少しずつ少しずつ、着実に東へ移動している。これでも昔はとても活発に旅をした身。進んでいけば、どこか僕の知っている場所へは辿り着ける気がするんだ。まあ、ここのところだいたいの土地は枯れ果てていてほとんど瓦礫にも気がつけないから、僕が何か昔の痕跡に気づくことがあったらそれはそれでもうけものだろう。
「ねえ、フィロロ」
 歩きながらひとりごちるのは日課のようなものだ。言葉を忘れないために。文明が消えてかなり経つ今でも少しでも僕が人らしく在るために。言葉を使う。誰かに何かを伝える必要はなくなってしまったから、なんとなく言ってみるのが大半なんだけど。
 僕らの空色は、空色ではなくなってしまったよ。もうこの空の全ては黄金色のまま、移ろうことを知らない。赤い土に、希に白い瓦礫の跡が埋もれ、そのうえにくすんだ茶色の背の低い草がそよぐ。もう長らく青を見ていない。きみが見たがった海も真っ黒。きっときみがこの景色を見たら残念がる。よかった。よかったよ、きみが、この景色を見ずに済んで。
「いつまで旅を続けたらいい?」
 自分の声が変わらない。歳を、取っていない。
 時間が止まっている? わからない。でもこの足はまだ進んでいるから。
「きみはいつまで旅を続ける?」
 何もかも、わからないままでいい。
 僕らはそれでもいい。
 ただ、旅ができれば。
「まだいるのかな。過去のどこかに。もしそうなら、ちょっと寂しい」
 これからも歩くのなら、その先に何を思えばいいだろう。何もないことがわかりきっている広大な大地に立って、動くことが一体なんになるのか。どうせどこかでのたれ死んで終わる。きみのいない旅路のどこかで。それならどこでだって同じじゃないかと、考えて、首を振る。もしきみだったら動き続けるだろうと信じていた。
 楽に死にたいとは思わない。もがき苦しんででも足掻き続けてからがいい。呆気なくあらゆる命が消えてしまう、そんな新しい摂理へのささやかな抵抗のつもりでいた。それだけが意義なのだろう。きっと。人は弱い。弱いけれど、抗う。それを僕は僕に示せたらいいんだ。
 自らの影を踏む。
 疲れると、草か虫かを注意深く探しながら、渇いた土に腰を下ろしてぼんやりと過ごす。適当に疲労が癒えたらまた立ち上がる。眠気を感じるまではひたすらそれを繰り返し、眠気を感じたら適当に眠る。空腹は常に感じるものだから気にしていたらきりがない。眠る前と後だけ、少量の保存食を口にする。時折独り言であったり歌であったりを口ずさむ。頭が無になってしまわないよう、自我を見失わないように。身体の調子がよくないときもその習慣だけは続けた。どうせ休憩なんていくら摂っても栄養がなければたいして回復しないんだから。
 きみがきみを忘れていた理由が、今ならわかるよ。いつの時代も自分で決めた目的のために動き続けるのは難しいことだ。単調に、進んでいるのか止まっているのかもわからない旅路を辿り続ければ、記憶なんてすぐに薄れてしまう。僕は思い出せない。僕らの旅路を。僕らの色を。きみの笑顔を。
「文字を覚えておくんだったなあ」
 記憶を土に記していけば、多少は忘れることも減るのではないか。
「じゃあいっそ、つくっちゃおうか。文字」
 どうせ今後も僕でない誰かに言葉を伝える機会は来ない。僕だけがわかればいいしるしを、なにか遺そうと思い立つ。考える時間は多分にあるんだ。
 それから、数日か数週間かをかけてアルファベットに似た文字を編み出し、僕は行く先々で休憩の度に地面に短く言葉を綴った。それをはじめてからは、少しだけ、体調が回復する。脳を弱らせなくなったためか。
 ほどなくして、言葉と共に数を記すようになる。日にちを数えるわけでなく、休憩をとるごとに、僕は時の証を刻む。日によって回数はばらばらだろう。でも、進んでいる、進めている実感が持てるなら充分だった。一、十、ついに百を越えて、その頃には、休憩時間も書き記す言葉も長くなってきていた。疲労がかさむことももちろんあったけど、だって、僕は僕の証を遺したい。この長い旅路を、枯れようとする世界に刻みたい。一言ではとても足りないんだ。歩いているうちは言葉を考え続けるようにした。届け。届け。そう願った。誰に届いてほしいのか? それは考えたくなかった。

 僕らは何も知らなかった。僕らは何かを知りたかった。
 僕らは郷を知らなかった。僕らは郷を探していた。
 僕らは死を恐れていた。だから、死に損ねた。
 僕らは旅をしていた。僕らは旅を続けたかった。

「……諦めたくない」
 僕らは驚くほどの回数、死に損ねた。何度ももうだめだと悟って、けれども何かの間違いで生き延びてきた。その運命はきみが死んだあとも執拗に僕につきまとう。永くない。下手をすれば今日にも。そう思い続けるわりに、刻む言葉はどこまでも増えてゆく。
 もうすぐ千。
 次はなにを記そうかと考えを巡らせながら西日を背にして歩いていたとき、僕はそれを見つけた。
 文字だった。僕のそれと同じように、土に刻まれた短文のかたまりだ。僕だけの言語だと思っていたその文字を使いこなした、僕には覚えのない筆跡。そこにはこうあった。

 幾重の旅をした。わたしは常に彼らと共にあった。
 幾重の死を見た。世界は常に滅びと共にあった。
 幾重の町が崩れた。彼らは人々の跡を巡った。
 幾重の記憶を辿った。ようやくわたしはわたしを思い出した。

 僕とまったく同じように、言葉の端に小さく添えられた数字は数十ほどだった。僕はしばらく放心してそれを見つめ、それからまた歩き出す。これの前か後に記されたものが、近くにあるはずだと思ったからだ。
 辺りを回ってみると、案の定、発見する。

 わたしは丘を探していた。
 そこは彼が目指している場所。
 そこはわたしが始まった場所。
 そこはわたしが終わるべき場所。
 そこは彼が終わりたい場所。

 僕は確信する。
「僕の字……解読、したの? わざわざ?」
 相変わらず頭がいいんだね。
 そう考えると思わず笑えてきて、僕はその言葉のとなりに、また新たに綴る。

 僕はきみを探している。

 旅の行く末が見えた。この言葉たちを辿ってゆこうと。



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