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序章――切望

 世界はいつのまにこんなに荒廃してしまったのだろう? 少なくとも、僕らが旅を始めたころは、人はもっとたくさんいて、賑やかで、どこもたくさんの町明かりが夜を照らしていた。そうでない閑静な町もたまにはあったけれど、それだって所々に温かな人々が住み、話せば楽しいと思えたのだ。あの頃は、本当に、生きることが楽しくて仕方がなかった。何回も死にかけ、その度にきみの力に頼ったせいで、僕らの年齢がじょじょに離れていってしまったりもしたけれどね。それでも、ふたりでいればどこまでも旅ができると信じて疑わなかったんだ、僕らは。
 あの日。僕らが、探していた郷を見つけ、辿り着いた日。僕らの旅は、世界は、ひとつの終末を迎えた。
 きみは泣かなかった。つらそうに、辺りに散らばる瓦礫と死体をしっかりと目に納め、笑った。きみは強かったね。ほんとうに。絶望しかけた僕を、きみはいつだって旅へ誘った。砂埃の町から逃げざるを得なくなって路頭に迷ったときも、突然笑顔で「さとをさがそう!」なんて言って僕を驚かせたし、あの日も、つらそうな笑顔で、「人を探そう」と言った。なにかを探して旅をすること。それが僕らが僕らたるゆえんのようにも思える。
 じゃあ、僕はきみに何ができたんだろう。きみはいくら言っても悲しむべきときに悲しむそぶりを見せない。頑固なんだ。だから僕がきみの苦しみに気づけたことは少ないんだと思う。一人だけ無理をする。ずるいよね。もっと甘えてくれればよかったのに。そりゃあ、ため息はつくよ? 文句だってたぶん言う。でも、僕はそんな時間も含めて楽しかったのに。
 月明かりだけの夜は、静けさが支配する。
 ここは見晴らしがよく、風が心地いい。僕が必死になって探した場所だ。瓦礫の町でもいいのならいくらでもあるけれど、きみはそれでもいいと言ったけれど、こればかりは僕がどうしても譲らなかった。きみはやがていつもの穏やかな笑顔を浮かべて言った。ありがとう。僕は急に不安になる。大丈夫? また、無理させてはいないだろうか。
「きみってほんと、心配性だなぁ」
「……わかってるよ」
 そんなんじゃ長生きしないよって、昔はよく言われたものだけど、最近のきみはそれを口にしなくなった。昔の喧嘩の負けを認めたんだろう。そう考えると楽しいようで、しかし喉の奥が熱くなる。
 のどやかな丘の頂上には、背の低い草がまばらに生えている。それらを適当にむしり、洗って、少量の水で入念に煮込んでから昼間じゅう干しておいたものを塩につけて口にする。美味しくないのはとっくになれっこだ。あれから植物もあまり見かけなくなったから、見かけ次第食べなくては生きていられない。毒味だとか、そんなことは気にしない。食べなければ死ぬ。食べて死ぬより確実に。
「……まずい?」
「まずいよ。食べる?」
「ちょっとだけなら」
「ん。はい」
 隣で見ていたきみが手を伸ばす。僕はその手を無視して口に直接草を突っ込んでやる。
「うっ。……ひどいよヴェントぉ」
「まずいだろ?」
「すっごくね!」
 そうは言いつつも律儀に飲み込むあたり、きみも旅人が板についている。蒼白い顔をしかめながら咀嚼し終えたきみは、くすりと笑うようなそうでないような息を漏らした。
「最後の晩餐、かなあ」
「せっかくなんだから吐かないでよ?」
「んーわかんない」
「ええー。まあ、いいけどさ」
 きみはすっかり幼くなった身体を仰向けに寝かせ黒ずんだ四肢を投げ出したまま、また、ありがとうと言った。
 どうしようもない、もう終わりだ、と思い始めたのは数ヵ月前ほどだったか。きみの身体は僕のそれより五歳ぶんほど幼く、体も強くなかった。だから、世界が埋もれてからはたびたび栄養失調で動けなくなった。当然、きみはいつものように、戻った。きみの身体を以前の状態へ。けれどいくら戻っても、さらに幼くなるのなら実質意味はなかった。一時的に回復してもすぐにまた倒れる。それをずっと、ずっと繰り返してきた。何年もだ。だから、いつかこうなるのは覚悟していたんだ、けど。
 無音の夜にぽっかりと浮かぶ月を見上げる。昨日は下弦だったはずが、今日は上弦だ。おかしいと思うだろうか? さあね、おかしいなんて思える感覚も麻痺してしまったよ。
「ヴェント?」
「……ごめん」
「なきむし」
「わかってるって。うるさいなあ」
 空色の目が僕を見ていた。
 顔を背ける。
「やだ」
「なにが?」
「見ててよ」
「……やだよ」
「見てて」
 丘からは世界が一望できる。すべてが崩れさって、果てのない更地か地平線の向こうまで続いている。そこをさらにならすように風が吹き抜ける。僕の心ごと、吹き抜ける。
 沸き上がる感情をこらえ、こらえて、またきみの方に視線を振る。きみはこんなときでも穏やかで、どことなく楽しげですらある。ぶかぶかになった白い服の上に横たえた身体は、目も当てられないほど細く、肌は先端部で黒くなり壊死している。視力も落ちたと言っていたから、ひょっとしたら僕のことも、あの月も、あまり見えていないのかもしれない。
「なんて顔してんのさ」
「こういうとき以外に、こんな顔するときがあるかよ」
「あー、ないか。じゃあレアだから眺めとくね」
「いやそれは丁重に断るよ?」
「あはは!」
 声を上げて笑う。その衝撃が駄目だったのか、きみは突然顔色を悪くして視線を揺らした。僕は咄嗟にきみの上体を持ち上げ、俯かせる。予想通りきみは嘔吐する。さっきの草が少しと、胃液が少し、土に染みていった。
「大丈夫?」
「……」
「……ちょっと。フィロロ?」
 返答がなく、焦って顔を覗き込んで、たまげる。
「フィロロ……」
 言うべき言葉が、見つけられない。きみが僕の前で泣くなんて、今までになかったから。ひとまず口の周りの嘔吐物を拭ってやり、また安静に寝そべらせる。流れるままになった涙が、白の布地を濡らした。きみが何も言わなかったから、結局、僕も黙り続ける。
 つくづく思う。僕は人とかかわるのが下手だ。家族にさえも、励ましの言葉ひとつかけられない。こんな僕が人を探す旅なんてできたのは、ひとえにきみのおかげなんだ。それなのにさ、きみが死んだら、僕はどうしたらいいんだろう。旅を続ける? 何故? 僕らの郷はここだよ。だってそうでしょう。僕の帰る場所はきみの隣だし、きみの帰る場所は僕の隣だったはずだ。郷を探そうなんて、建前でしかなかったでしょう。ふたりで旅がしたかった。ただそれだけじゃなかったの。だったら。
「ヴェント……ごめん……」
「なに? なんで。なんでそんな弱気なこと言うんだよ」
「ごめん。こんなことしか言えないや……よくないって、わかってる、んだけどな……」
「え、よく聞こえない……なに?」
 きみは笑顔をつくろうとした。うまくできてはいなかった。それが、いやに心に刺さった。
「生きてよ。旅、してよ」
 小さな声がしかしはっきりと耳を打って、僕は怒りを覚えて、きみの不格好な笑顔を睨み付ける。きみは参ったなあというふうに息をついて、ごめん、と、もう一度唇を動かす。声は出ていなかった。頼りになるけどそそっかしくて、すごく活動的だったきみが、今ではこんなに情けない。その事実が僕を打ちのめす。
 人は、弱い。
 弱いものは、死ぬ。
 ああ。
 手を、折れそうな喉元に当てる。鼓動は、一度だけ弱々しく鳴って、その後はいくら待っても拍を打つことはなかった。
 きみには大きすぎるきみの服を、目の前の遺体にかぶせ、僕は立ち上がる。たいした荷物がない中から、大ぶりのナイフを抜き出す。大丈夫だよ。自分に突き立てたりなんかしない。これしか使えそうなものがなかっただけだ。
 夜が明けるまで、作業に追われた。

 翌朝、誰もいなくなったそこには、一ヶ所、小高く盛られた土があった。




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