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断章――過去

 砂埃が薄汚い貧民窟に木霊した。
 この地域はいつも天気が悪い。白く濁った曇天のもと、湿った風がビルの合間を吹き抜ける。その拍子に、カラン、と捨てられたままの空き缶が音を立てる。反射的に目が覚めた。そこであれ、と思う。なにかおかしい? いや、なにもおかしくなんてない。僕はいつも通りの朝を迎えたんだ。
 あまり眠っていないせいでぼんやりとする頭を、必死になって動かす。
「……フィロロ? どうかした……?」
 隣で踞って眠っていたまだあどけない空色の少年が、眠たげに身体を起こした。
「いまってさ、僕ら、何歳かな」
「んん? 十くらいじゃない。わかんないけど」
「そっかあ」
 そう、わからないのだ。僕がどうしてこんな質問をしたのかも、今がいつかも、僕らの年齢も本当の名前も、生まれた町も。わからないからこその僕らであるとさえ言えよう。だって僕らが旅をする理由はいつだって――いや、そもそも僕らは旅なんてしていない。寝惚けているのか、まだ、思考が覚束なかった。
 身体にかぶせていたダンボールを押し退け、立ち上がる。
 今日は食糧の配給がある日だから、早く行かなくてはいけない。間に合わずに貴重な生活源がなくなってしまえば、それこそ命取りなのだ。
 固まった全身をほぐすように伸びをして、付着した砂を軽く払い落とす。そうしているとようやく眠たげな少年が、ヴェントがもそもそと同じように起きてきて、おはよう、と言った。すると、急に頭がはっきりする。そうか、僕はフィロロだ。ヴェントとは双子。兄か弟かは知らないのだけど。
「おはよヴェント。いこっか?」
「うん」
 ダンボールは風で飛ぶことのないよう地面に少し埋めて差し込んでおく。それが終わると、僕らは素足のまま、あまり清潔でない砂道を歩く。
 僕らは、こんな社会から見放されたような貧民窟に、ふと気がつけば暮らしていた。もう何年もこうしているような気がするし、僕らの記憶が曖昧なだけで大した年月は経っていないのかもしれない。ともかくこの頃の僕らは俗称で砂埃の町とも呼ばれる貧民窟の隅に転がって生きていて、そうすることに疑問も抱かないほど慣れていた。貧民窟には犯罪が溢れていた。僕らは、無知で、それが犯罪であることも知らず、騙し、盗みながら食い繋いでいた。だけど。
 あるとき、とある栄えた街の者だという集団がこの町にやって来て、僕らをはじめとした犯罪でしか食い繋げない輩に食糧を配り始めた。慈善事業だ、と彼らは言った。その言葉の意味はよくわからず、ただ幼心に、彼らは僕らを見下しているのだろうと感じた。だけど食糧がもらえるのはほんとうに嬉しかったから、僕らは総じて彼らに群がり、感謝した。
「きょうは、はなせるかな?」
「いつもはなしてるじゃないか」
「そうなんだけどさぁ」
 話しながらしばらく歩き、彼らのもとに辿り着くと、既に何人かが簡易テントの前に押し掛け、列を成している。僕らも最後尾につき、列が崩れるのをじっと待つ。この町には本来、列を成して並ぶなんて大層な文化はないのだけど、これは慈善事業集団の皆が僕らにルール付けた第一のことだ。従わなければ、食糧はもらえない。
「フィロロ、さ」
 待ち時間に焦れたらしいヴェントが、光沢のある簡易テントの表面を眺めながらに口を開いた。
「なにー?」
「きょうどうしたの?」
「え?」
「なんかへん」
「えー? どのへんが?」
 訝しげな、少し不安そうな目は、一度もこちらを見ようとしない。
 ヴェントは昔っから心配性が過ぎる性分だった。僕が気づかないくらいのちょっとしたことを気にして、すぐ不安がる。そんなんじゃ長生きしないよ、そう言うと彼はいつも怒って言い返す。能天気でそそっかしいきみの方がよっぽどだよ。だから心配するんだよ。その度に僕はこう返した。きみがそうやって不安がるから、笑わせようとしているだけだよ。つまりはそういうことなのだ。
「もしかして……また、とんだの?」
 飛んだ。何が?
 わからない。
「とんだって?」
「だからさ……みらいで、なんかあったの?」
 紡がれた声が揺らぎ、行き場を失う。僕は、ようやく霧がかっていた記憶の尻尾を掴む。まだあどけない、まだ僕と瓜二つのヴェントの顔をまじまじと見つめる。
「ヴェント、ぼくのちからは、かこにはもどれないよ?」
「……え?」
「かこにはもどらないで、いまのまま、ぼくだけがまきもどれる。ちがったっけ」
「あ……そっ、か」
「ちょっとー。ヴェントこそどうしたんだよ。きのうねむれなかった?」
「ううん、へいき」
 慈善事業集団に、はじめて食糧を貰いに行ったとき、みなが受けさせられた検診がある。ヴェントとは離れ、個人で白い服を着た人としばらく話し、なにかのテストをして、薬を飲まされた挙げ句、一晩ベッドに縛り付けられた。聞くところによればヴェントはテストをした時点で帰っていいと言われたらしいけど、僕は違った。翌朝、また同じテストをして、ついに僕は「適性がある」と言われた。何の? それはどうも僕のある力に関連しているらしかった。
 簡単に言えば、時を遡る力。ただし世界に流れる時は遡れない。僕の中に流れる時間だけを巻き戻し、五分であれば五分前にいた場所、五分前にとっていた体勢、五分前の体調に戻ることができる。怪我や病気のときには特にこの力をよく使った。この町に医者はいないのだ。ヴェントが体調を崩したりすれば僕が付きっきりで看たし、食糧はぜんぶヴェントに回した。そういうことを僕にしなくて済むから、負担が少ないからこそ、僕らはこうして生き延びることができていた。
 それからというもの、僕にテストと入院を貸した集団は、僕らにひいきした。他の者に妬まれないよう、慎重に、けれど確実に僕らにはより多くの食糧や医薬品が渡された。なぜかと問うと、僕に適性があるから、死なせたくないから、そう言われた。わからない。彼らがなにをしたくて僕らを生かすのか。わからないままでも、生きていくことはできた。ヴェントが体を壊しても、遺される恐怖に怯えることがなくなった。相変わらず住む場所はないけど、じゅうぶん、満たされていたと思う。
 そんな幸福か揺らいだのはいつからだろう。
 欲が出たのだ。
 きっかけは、配給に行くといつも僕と話したがる、集団の一員のおじさんだ。自分は旅人だと言っていた。旅先で見たものの話を、会うたびに僕らに聞かせた。砂埃の町しか知らない僕らは、当然、彼の話に興味を抱いた。僕らも旅がしたいね。気づけば、ふたりでそんな話をよくするようになっていた。つられるように、この貧民窟に文句をつけ始めた。砂の上に眠るなんて、他の町の人はしないらしいよ。他の町では水がどこでもただで飲めるんだって。話すうちに外へのあこがれは強まり、僕らは現状に満足しなくなっていく。代わりに、外の話を聞ける配給日がとびきりの楽しみになる。
 とびきりの楽しみ。それが今日だ。
 いつのまにか列は進み、僕らはテントに足を踏み入れた。
「おお、ふたりとも元気か?」
「げんきだよ!」
「こら、元気ですよ、だろう」
「……そうでしたー」
 いつものおじさんが僕らに笑顔を向けた。
 最近は、彼に教わって敬語を練習中である。
「ごはんくださいごはん!」
「はいはい、二回言わんでもわかるぞ」
「ごはんください!」
「三回目だ」
 喋りかけるのは、おもに僕。ヴェントは人と話すのが得意でないらしく、ここではしおらしく振る舞う。
 テント内にいる人達が、配給物資をまとめて僕らに手渡してくれる。それから、どうせ朝御飯もまだだろうと言って、二人ぶんの飲み物とクッキーも。
「わあ! いいの!?」
「駄目だ」
「ええっ!? ……あっ。いいんですか?」
「もちろん!」
 僕は声高に。ヴェントは小声で。口々にお礼を言って、紙皿を受けとる。テントの奥に案内され、他の人からは見えない仕切られた空間で、僕らはふかふかのクッションの上に座して肩を並べた。
 待ちきれない。しかし彼らの規律には従わなければならないから、しっかりと食前の祈りを済ませる。手を合わせ、僕が小難しい言葉をたどたどしく紡いで、ヴェントが復唱する。この行為の意味も、よく知らない。
 まず飲み物に口をつける。さっぱりとした茶色の飲み物の名前も知らず、しかし気にはしなかった。寝起きのままだった口内を潤し、数秒と待たず飲み終えてクッキーに手をつける。この暮らしの上ではそうそう経験することのない強い甘みが舌の上に広がり、思わず頬が緩んでしまう。食べっぷりはヴェントだって負けていない。誰だって、お腹は空くのだ。僕らは同時に食べ始め、同時に食べ終える。顔を見合わせ、この幸福を共有しようと笑い合う。これで今日の僕らは少なくとも餓死することはない。
 直後。
 晴れやかだったヴェントの表情が歪んだ。その上半身がぐらりと傾き、手が床につけられる。彼は何かを言おうとする。口を動かす。声は、出ない。
「ヴェント? どうし、」
 ちかちかと、視界が明滅した。言葉の紡ぎかたを忘れてしまったように何も言えなくなって、思考が霞む。全身から、力が抜け、僕らはこぞってその場に倒れ伏す。
 そして、また、この意識は確かに、“飛ぶ”。



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