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終章――未来

 目を開けば、埋もれた後の世界を支配する無音が身を貫いた。
 古びた町の痕跡はもはやまれに地上に露出する瓦礫の山のみだ。あたりはまっさらな荒野で、わたしはどうやら瓦礫のひとつに背を預けて眠っていたようだった。さすがにコンクリートに寄りかかれば腰が痛いのは当然で、最悪の目覚めを経て開口一番に呻きを漏らす。のろのろと鞄を漁り、残り少ない保存食をひとかけらだけ口にし、水で腹を満たして立ち上がる。
 視界のほとんどを埋め尽くす空に雲はなく、空気もこれでもかというほど乾いていた。
 これなら、今日は、もう少しくらい食べ物を干しておける。
 思って、わたしはふらふらと歩き出す。
 あきらかに思考が鈍っていた。あるいは、現実逃避がしたかったのかもしれない。
 干しておけるほどの食物など、もうない。
 死ぬのかな、わたしは。
 何回か経験したことはあった。死ぬことも、消えることも。目覚めたその瞬間に命日を悟ることだって少なくはないのだ。今日のように。
「……どこへ行こうか」
 力ない声で呟き、荒野を見回す。ずっと向こうに海があるのが見えた。煌めく水面がこんな距離でも目にできるのは、ひとえに建物も植物も死に絶えた土地であるためだった。自然と足が向いた。
 思い出す。今回のわたしは海へ向かっていて、その最中に力尽きてあんなところで眠っていたのだ。なぜ海へ? それは当然、餓死はさすがに苦しいから、せめて、といったしょうもない理由である。もういいでしょう。みんな消えた。ずいぶん長い間ひとりで誰とも話すことなく、草を採り、虫を狩り、どうにかして生き延びようとした。ネズミより大きな動物はいない。植物だって雑草でないものはそうそう生えてこない。ましてや衛生なんてものは遥か昔の概念だ。こんな環境でここまで生き延びられたこと自体が奇跡みたいなものでしょう。
 一ヶ月前から腹痛を感じるようになった。二週間前からは耐え難い痛みに度々襲われた。原因はいくらでも考えられた。だが、わたしはなんの知識もないただの人間だ。治す方法も何もかもわからない。ひとり虚しく荒野の中で転げ回った。耐えられなかった。どこかへ向かってまっすぐ行けば、川か、ないしは海にたどり着けるだろうと思った。
 それだけのことだ。
 息を吸う。痛みに耐える。煌めく海を見据え、動きの鈍い足をひたすら前へ動かし続ける。自らの呼吸、脈拍、痛みだけが世界になる。時間は、一応数えてはいたが、すべてが退廃したこの世界では確かでないのかもしれない。
 ふと気がつくと、広い渚のきわに佇んでいた。歩き出してから何秒も経っていないような気がしたが、足は疲れきってまったく動かせそうになかった。
 まず背負っていた荷物を手放す。軽い鞄は寄せる波にさらわれ、ゆっくり、ゆっくりと沖の方へ押しやられてゆく。ある一点で浮かんでいたそれがたぷんと微かな飛沫を立てて沈む。じっとそれを見送るなり、全身から力が抜け、その場に倒れ伏した。湿った砂が頬に触れ、きつい潮の香りが鼻腔を満たす。波が寄せ、顔にかかって、また返してゆく。塩水はやけに目に染みる。
 ああ、やりきった。やりきったんだ。これでわたしの生きる術はないに等しくなった。道具もなしに火は起こせない。火が起こせなければまともな食事にはありつけない。そもそも、あたりには雑草さえ生えていない。もうこの星に生きているのはわたしのこの身体だけなのではないかとすら思える。ならばわたしは最後の最後まで生きて、足掻いたということだ。十分じゃないか。
 乾いた空から、強い日射しが照りつける。わたしは、もう一歩、もう一歩だけ入水を試みようと思い続け、しかし動かない身体のままに塩辛い波に打たれていた。
 日射しに焼かれた肌が熱く、もはや痛みを訴えだしたころ、定期的な波の音にノイズが混じった。
 足音。
 海岸線に沿って歩く誰かが、いる。
 信じられなかった。わたしを迎えに来た天使かなにかだろう、と適当な思考が結論付ける。手を伸ばし、砂を掴み、力を込める。時間がたち、多少の体力が回復したからか、上体を起こすくらいのことはできた。半身には砂がべったりと付着し、全身から潮の香りがした。ひどい有り様だったが、どうでもいいと思った。
「大丈夫ですか」
 声。
 始めはそれを言葉として聞き取ることができず、わけもわからぬままに視線を持ち上げるだけを返答とした。
「ああ。申し訳ありません。死ぬ気でしたか。お邪魔してしまいました」
 年若い。空と同じ髪の色をした青年だった。
 彼だ。
 鈍っていた思考から、わたしというやつが切り離され、それを認識した。
「あ、あなたは……?」
 聞こえるだろうか、不安になるほどの小声が、喉から絞り出される。
「旅の者です」
「……まだ、人間が、いた、のか」
「ええ。まれに。けど、ここ一年くらいは見ていませんでした。お会いできて嬉しいですよ」
 言って、彼は笑う。ああ、そういえば、この頃の彼はよく笑うのだ。好奇心旺盛で、話し好きで。
「よかったら、暇潰しにつきあいませんか。どうせあなたも、死ぬくらいしかやることもないでしょう」
「……すまない。もう、あまり、話せないから」
「どこか調子が?」
「色々な」
「そうですか……」
 彼は、食料を持っている。もしもわたしに回復の見込みがあれば、今の彼ならば、手を差しのべてくれたのだろう。だが、このわたしは死を待つだけの身だ。だから。
「聞くだけ、なら」
「えっ。いいんですか?」
「あぁ……」
「ありがとうございます!」
 はしゃいだような笑顔はそっくりだった。
 あの少年はどうしたのだったか。死んでしまったか。力を使いすぎて、旅のできない身になってしまったか。どちらにせよ、今もどこかで生きているということはないのだろう。彼があの少年と離れて過ごすなど、考えられない話だ。
「あのね、僕は、ある人を探していたんです」
 波打ち際に佇む彼が、懐かしむように口を開いた。
「その人は、ずっと僕らと一緒にいてくれました。僕らが、故郷のことも忘れて、路地裏に転がっていた頃も。故郷を探す旅を始めて、目的も忘れていろんな町ではしゃいでいた頃も。ついに、故郷をみつけたときも」
 夕刻が迫る。
 いつの間にこんなに時が経ったのだろう。いや、時は動いてすらいないのだ。それなのに、死んだ命は還らない。
「やっとみつけた故郷は、すぐ埋もれてしまいました。街も森もぜんぶが崩れて。それから、僕らは、埋もれたものの痕跡を探すことにしたんです。二人でそう決めて。生きていたはずの人の証が欲しかったんです」
 黄金色の海面に、泳ぐ魚の影はひとつもない。みんな死んだのか、それともまだどこかで息づいているのか、それは彼のように旅をして、人に会って、見て確かめなければわかるものではないのだろう。
 だから、不安になることがある。
 この次はないのではないかと。
 次、意識を手放したら、再び彼らと巡り会うことはなくなるのではないか。
 いくら過去を、未来を自在に往き来しているとはいえ、世界が埋もれてからというもの、人間というのは極端に少なくなった。もしもそれらすべての主観を演じ終えたら、そうしたらわたしはどこへ還るのだろう。死ぬことはない。いくら死んでも、わたしはまた彼らのもとへ戻ってきた。だが、それは一体いつまでもつのか。
「しばらくまた歩き回って……けど、やっぱり食べ物がなくて。旅の連れが栄養失調で死んで。それからも、その人はいつも僕のそばにいてくれました」
 わからない。
 これはたんなる茶番かもしれない。
 わたしの存在を、いったい誰が証明できる? わたしは常にわたしではなかったのだ。ただのノンプレイヤーキャラクターでしかなかった。わたしの自我はないに等しく、いつも知らない誰かを完璧に演じきった。今だってそのはずなのに。
 ヴェント。あなたはいつ気がついた?
 問うことはかなわない。この身体はわたしのものではないからだ。この身体でいるかぎり、わたしはわたしとして生きることを許されない。そもそもわたしはわたしがなんなのかもわかっていないのだ。だったらわたしは、わたしを演じようもない。
 至って自然に、死後への土産話のつもりで、わたしは彼の声を聞いた。
「最近は全然その人が見つけられなかったから、僕ね、焦りましたよ。ほんとに。連れもいなくなっちゃったし、その人も死んじゃったのかなあと思うとね、さすがに、ああ、なんで一人で旅なんかしてるんだろうって。何もないのに残されて、どうしろって言うんだ、って」
「……わかる、なぁ」
 ひとりで残されて。誰もいないのに、生きるためだけに無心で生き続けて。
 この身体に刻まれた記憶が、彼の言葉に呼応し震えた。
「だからね――」
 夕陽が沈む。波が揺らぐ。光の筋が遥か彼方へ伸びる。息を呑むほど美しいのに、世界にはそれを目にできるものが二人しかいない。哀しいだろうか。あるいは独占できて嬉しいだろうか。わたしには判断できない。ただこの身体は黙って水平線を眺めた。
「もし次があったら、いい加減、終わらせようって決めていました」
 彼の言葉と共に、西日が視界を滲ませ、水平線がぼやける。世界が溶け出し、一面の金色に染まり、それも一瞬で、闇に呑まれてゆく。
 ねえ、ヴェント。きみさ、細くなったよね。どうやって生き長らえたの? あれからどれだけ経ったかは知れないけど、そんな顔をするようになるなんて、きっとよっぽどのことがあったんだろうね。あ、見てよほら、海だよ! すごいね。本当に広いんだ。海って初めて見た。これがぜんぶ水なんだね。うわあ……って、あれ、ヴェント? どうかしたの?
 細い手が、力強く、わたしの背を押した。水面が迫る。溶け出した世界で、真っ黒に染まった水面に、顔を強かに打ち付ける。刹那、ひときわ強い波が渚へ押し寄せた。ざざ、ざざ、と命のない無音を切り裂いた波が引き、この身体も沖へ沖へと引っ張られた。
 フィロロ! 呼ぶ声がした。ごめん、今はちょっと返事できそうにないや。ごめんね、また会えたら、その時に。え? もう戻らなくていいって? やめてよ、このまま終われっていうの?
 沈む。息の仕方を忘れる。もがき方もよくわからなかった。沈む。苦しい? 苦しいって、どういうものだったかな。それもわからなかった。わたしは無知だ。昔から、君を困らせてばかりの、無知な少年だった。
 どうでもいいや。
 戻ろう。未来でもいい。適当に人がいる頃へ戻れば、君に会える。もう一度。何度でも、僕は。




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