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断章――無知

 気がつけば、わずかな埃と陽の臭いに包まれる。
 目を開く。視界には、揺らぐ薄っぺらいカーテンと木製の古びた天井が映る。窓から外を覗いてみれば、整った家並みがまっすぐな道路に規則正しく並んでいて、多少の人影が往来するのが見てとれた。
 今度は、埋もれる前か。
 大した不安や孤独を抱えないこの身体の中で思考し、わたしはどうやらいつも通りらしい身支度をする。寝間着を脱ぎ捨て作業服を着込み、簡単な朝食を終えて家を出るのだ。
 しばらく埋もれた後の人類を演じていたわたしには、このような歩きやすい道路は懐かしい。気分よく、朝の涼やかな空気を吸い込み吐き出した。この身体に曖昧に残る記憶を頼りにして歩を進め、駅を抜けて路面電車に乗り込む。線路を踏む規則的な振動に身体ごと包まれるのが、こんなに心地よいとは思いもよらない。これこそあるべき世界だと喜ばずにいられようか。
 流れる景色を新鮮な思いで眺めようとするわたしと、早朝の出勤にうんざりしているこの身体の持ち主らしき意思とが相反し、内心で混ざりあった。ああ、なんと贅沢なことだろう。正常な世界に在られることの素晴らしさを、この時点の人類は知る由もないのだろうけれども。
 ゆったりと動く路面電車に十分ほど揺られ、わたしはのろのろと降車する。
 その先に、人影があった。
 彼らだ。
 彼らは、物珍しげに路面電車を見つめ、ひそひそと何やら言葉を交わして初めて目にするそれについて論じているようだった。いや、喋っているのは主に少年の方で、青年に関しては相づちを打っているだけにも見える。
 興味が沸いたというよりは出勤を少しでも遅らせるために、わたしは彼らに近づいた。
「珍しい髪だ。旅人さんか?」
 問うと、青年はあからさまな警戒を見せて一歩後退り、少年は動じずに受け答える。
「そうなんです。さっきこの街についたばかりなんですけど。あの、あれって、なんですか?」
 興味津々といったふうに路面電車を指差して問い返してくる少年に、わたしは呆れたような声で返す。
「電車だよ。知らないのかな」
「でんしゃ……?」
「乗り物だ。こういうレールを敷いて、その上を走るんだ」
「レールを敷いて? レールの上しか走れないのは、不便じゃないんですか?」
 面白い。
 わたしは微かに笑い声を立ててみせた。
「ああ、確かにな。でも、車みたいに間違って滑って建物にぶつかることはないぞ」
「なるほど、そういうことかぁ!」
 疑念が晴れたことがよほど嬉しいのかはしゃいだ声を出し、少年は嬉しげにわたしに礼を言って、傍らの青年にまた感嘆の意を笑顔で説き始める。つくづく、少年は好奇心旺盛で話し好きなのだろう。
 話が終わったと察してその場を立ち去ろうとしたわたしに、今までずっと黙っていた青年がおずおずと声をかける。
「あ、一つ、よろしいでしょうか?」
 振り返れば、青年はうるさい相方を制しながらに真剣な目でわたしを見た。
「何か?」
「僕らは、故郷を探しています。なにか、わかりませんか?」
 故郷。
 そういえばそうだ。自らのことを何も知らないストリートとして砂埃にまみれ育った彼らは、やがて起源を探りたくなって旅に出た。確かそういう経緯だったはずだ。そしてしばらくは故郷に通ずる手懸かりを探し歩いていた。あてどもなく、手当たり次第に。
 わたしはどうやら何かが気に食わなかったようで、答えるよりも止めていた足を進めるに徹した。朝から、仕事前で、気分のあがらない話はしたくなかったのやもしれない。ただ作業服のポケットに納められた数少ない安い硬貨がちりんと小さく音を出した。
「残念だが、一端の掃除屋には知識ってもんがない。他をあたってくれ」
 顔を曇らせる少年と、律儀に挨拶を欠かさなかった青年とが離れていって、再び意識が飛ぶ。




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