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断章――旅人

 ある平野に町が一つあった。石造りの建物が余すところなく立ち並び、入り組んだ路地には埃と瓦礫が溜まり、その隙間にびっしりと草が這っている。緑と灰色が織り成す町は無音に近く、わずかな風と葉の擦れる音のよく響くことだった。音に驚いた小さな羽虫が、家の窓枠へ慌てて身を隠す。
 それをおかしそうに笑う少年がひとり。
 彼は防寒具を身に付け、少ない荷物を背負い、空色の髪を帽子に隠した格好で、きょろきょろと辺りを見回していた。時折、草の絡まりがひどくない家を見つけると扉に手をかけるが、軋んで開かないものがほとんどだ。幸い、扉が開けられても、室内は瓦礫や草でとても入れないありさまといったことも多い。進めども、彼は特に収穫を得ることはなく、しかし根気強くなにかを探していた。
 静かな町に、もう一つの音。
 少年は勢いよく振り返る。
 わたしは両の手のひらを掲げてから、笑みを浮かべた。
「こんにちは」
 少年は、わたしをまだ見定めているのか、数十メートルも離れたこちらへまったく近寄る素振りは見せず、しかしやわらかな表情で笑い返す。
「こんにちは。この町の方ですか?」
 荒唐無稽な問い掛けに、思わず軽く吹き出してしまった。いや、まさか、彼はこんな廃れに廃れた町で人が住めるとでも思うのだろうか。しかし、あながち間違っているというわけでもなく、その事実がわたしには苦々しい。
 結局は、頷くことにする。
「ええ。なんなら、わたしの家、見ます? 半分崩れてますが、まだ部屋はまともなんです。がらくたを見たければ、どうぞ」
「……いいんですか?」
「構いません。もう何年も住んでいないものでして。どうだっていいんです」
「じゃあ、お言葉に甘えて。でも少し待ってくださいね。連れを呼びます」
 言って、彼はあらぬ方へ、声を張り上げた。
「おーいヴェント〜! 人がいたよ! やさしそうな人〜!」
 明るい響きを持った、まだ変声もあやしいほどの声音が並ぶ廃屋の奥まで遠く遠く伸びていった。さすがの無音、どこにいるか知れない彼の連れとやらにも容易に聞き取れるだろう。しばらくして、草を分けるわずかな気配が、わたしの背に近づいた。
 見やれば、彼よりは若干年上だろう若い青年が細く息をついた。空色の髪。おそらくは兄弟か。
 わたしは、みずからの思考に苦笑する。
 既に彼らのことなど知っているのだ。なにを初見のようなふりをしている。肉体に思考が引っ張られているのやもしれないが、それにしても茶番劇でしかない。相変わらず、わたしというものは奇妙である。
「あなたは?」
「以前ここに住んでいた者です。普段はあちこちふらついて生活してるんですが、合間によく戻ってきていて。お会いできてうれしいですよ。久々に人を見ました」
「そうでしたか。僕らは見ての通り、旅をしています。町から情報を集めながら」
 淡々と会釈をした青年の顔は少年とうってかわって硬い。彼は、いつもそうだった。初めて会う人に愛想を見せることはなく、ある一定の距離を保ち続ける。人見知りが性分なのだ。知っていたから、わたしは不用意にも図々しい質問をかます。
「情報とは?」
「なんでもです。埋もれてしまったものを掘り返している」
 この身体は確かにわたしのものだが、そうではないという建前上の設定にも忠実に動く。わたしはこの町の住人であり、こうも廃退したことに対して諦念のようなものを持っている。そういうふうに、自然と振る舞うのだ。
「……なるほど。では、埋もれてしまったわたしの町、ご案内いたしましょうか?」
「ありがとうございます」
 とはいえ、この町はなかなかひどい。他に、もっと救いようもない地域は多くあるとしても、人間が動き回るには条件が悪すぎる。彼らがここに立ち寄ったことを恨みたくもなる。わたしは彼らの行く先々に付き合わされるのだから、勘弁していただきたいものだ。
 草を分け瓦礫を避けながら、この身体が独自に持つ記憶に従い、彼らを自宅らしき半壊した一軒家の前まで案内する。扉は壊れて開かないものの、壁に大穴が空いているお陰で室内には踏みいることが可能。積み上がった石の破片が崩れぬよう、慎重に登り、三人で室内をうかがう。
 そこには、まだ形は残した家具の残骸が、所々に転がっていた。風通しが良いために埃は少なく、生活感を残したがらくたたちが、静かに息を潜め眠る。
 少年が、目を輝かせながら、瓦礫のない空間めがけて綺麗に飛び降りてみせた。
「本がある!」
「お読みになりますか? ぼろぼろですけど」
「ありがとうございます!」
 倒れた本棚に駆け寄り、よいしょと持ち上げにかかった少年のあとから、青年が恐る恐る部屋に降りた。わたしは、意気揚々と本を読み始める少年を手持ち無沙汰に眺めていた彼に声をかける。
「あなたがたは字が読めるのですね?」
「いえ、彼奴だけ独学で。僕は勉学はさっぱりなので」
「そうなんですね。どれくらい、旅を?」
「埋もれるよりは前から」
 すらすら答える彼に躊躇はなかった。隠すことに意味があるほど、反発する思惑が存在しうるほど、この国には人がいないためだ。それこそ、ひとつの町にひとりいたら良い方。そんなひとりも、やがては死ぬか消えるかでいなくなってしまう。こうして三人も会することなどそうそうあるものでない。
 だから、わたしは多かれ少なかれ浮かれていた。あれから初めてこの街で人間に出会うことができた、と。
「もう、何年経ったんでしたか」
「さぁ。時間まで弱っていますから。もしかしたら半年も経っていないのかもしれませんし、五年くらいは経ったかもしれない」
「あいまいですね」
「あいまいなんですよ」 
 ちょっとだけ、笑い合う。
 そこでまた、意識は飛んだ。



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