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ジューンブライド 理子×朸

 数年前まで暮らしていたアパートは、住民票を移すことなく手付かずのままだった。ドア脇に掲げられる名刹は桧。ポストはチラシで満タンになってからずいぶん経つのか埃を被っている。
 そんな状態から辰巳と二人で大掃除をして、どうにかまた暮らせるようになった一室。私達は知れず達成感からの笑みを交わす。もう一度、死に近づきはしない安寧の日々へ帰ろう。彼女が消えて、組織が崩壊すると、これまで私に関わった皆が誰からともなくそう決意していた。それを叶える一歩がようやく踏み出せたような、そんな気がしていた。少なくとも私以外の誰もがそうで、その時ばかりは、多忙なれども幸福で活動的な時間に終われ、世界は確かに希望に向かっていたのだ。
 だから、私はいつものように、何もかも見えないふりをして、辰巳に告げる。

「ねえたつみん、」
「んを付けるなんを」
「うん。あのね、私、結婚しようと思うの」

 辰巳の表情はとたんに引きつって、驚愕と当惑がその目に滲む。苦笑し、私は再び口を開く。

「聞こえた?」
「…………誰と?」
「朸くん以外にいる?」
「いやいやいや」
「あら。反対派なのね。私を信じてはくれないの?」
「……」

 少し苦しげな、ほんとうに少しだけ泣きそうな顔で、息をつまらせる辰巳。
 もちろん、わかっていた。辰巳が抱えるこの大きな不安をわずかながら溶かしたのは彼女であったことも、しかし最後には辰巳が彼女に憎悪を抱くに至ったことも。結果、彼はこれほどの葛藤を強いられるにやむを得ない。彼女に示された篝火を追えば、憎しみは揺らぐ。憎しみを貫けば、彼は苦しみ続けなければならない。
 どうするのか?
 それは私が手を出さずとも、きっともう一人の彼女がいずれは解を導いてくれるだろう。

「まだ切り出してないんだけどね。後で来るよう呼んであるから」
「は!?」
「辰巳。恐怖だけを全てにしたら、良いことないよ?」

 少しは受け入れようね。
 言外に言うと、彼はすぐ勢いをなくして縮こまる。まったく、いつだって情けない少年のままなんだから。

「あなたの命の恩人は私じゃなくて朸くん。それを、忘れちゃだめ」
「……覚えてないし」
「それでも。死にかけたあなたを養って助けたのは、朸くんだったの。私は救われたあとのあなたを拾っただけ」

 我ながら寂しいことを言う。
 朸くんが壊れてしまったあの日々の方が辰巳の中で重いのは、当然だ。当時の年齢もあるし、どれほどの恐怖が彼に刻まれたかということでもある。朸くんは、どちらかといえば辰巳の兄のように振る舞ったが、実質は父だったのだろう。辰巳の成長に関する影響は大きく、精神の依存性も強かった。いわゆる親からのドメスティックバイオレンス。そういうものを経験したのだと、辰巳自身は認識している。だが、それが、父の人格のすべてとは限るまい。むしろ、父が抱える苦しみのうち、抱えきれなかったごく一部が辰巳に降りかかった、と言うのが正しいか。とても偏った言い方をするなら、辰巳や私はただ怯えるだけでよかったぶん、あの頃の朸くんよりか、まだましなのだ。
 朸くんはほんとうに優しかった。私に対しても、辰巳に対しても。自分が仲間だと思う相手にはとことん優しく、好きなだけ甘やかす。ずっと前からそういう気質だったから、その彼がああなるというのは、相当な災難としか言えず。
 私はまだ、朸くんの罪を罪とは思えない。

「あ、そろそろ来る」
「……まじかぁ」
「まじだよー。ちょっと迎えに行ってくるね」

 不安に駆られて俯く辰巳を背に、小さな一室のドアを押し開き、小走りでアパート前の道に出る。
 遠くに歩いていた朸くんと目があって、私は満面の笑みを彩る。どちらかともなく歩み寄るも、彼はまだ緊張を抜かない。

「よかった、ちゃんと来てくれた」
「……なんで呼んだ?」
「終わったんでしょう? 色々」

 緩やかな風が通る。ばたばたと動き回った冬も春もとうに過ぎ去ってしまった。そろそろ、夏が来る。気の早い太陽がぎらぎらと照って、アスファルトを熱している。その中で彼の心だけがひんやりとしていた。

「あぁ。彼奴が残した八人、なんとか送り出せた」
「おめでとう。朸くんは、名前、変えちゃうの?」
「そのつもり。さすがに、な」
「そう」

 風とともに緩やかに笑み、ただ彼の心を見つめる。

「帰ろ」

 手を取り歩いた。
 その年にもなって、まだ彼は戸惑い、目を背ける。私以外だったら腹を重ねたって眉ひとつ動かさないくせに。誰も彼も相変わらずだ。それがちょっと嬉しくなって、自然と歩調は早まった。

「あ、そうだ。結婚しようか、朸くん」
「は?」
「しないの?」
「お前の辞書に脈絡という言葉はないのか。するけど」
「うん、素直でよろしい」

 ゆっくり、ゆっくり歩む。初恋のままで止まっていた私達のなくした時間を僅かでも取り戻そうと、飾り気のない住宅街の路地を、まっすぐに。
 平和だった日々は泡沫で、一瞬で過ぎ、弾けて消えた。私のことばかり考えていつも空回った朸くんをからかって、ちょっと怒られて、でも当たり前に好きを共有できていた15年前。変わっていないのは愛だけで、今はもう、その他のすべてが悪化の一途を辿るばかりだ。それでも今は、この一瞬だけは、暗い未来をも忘れるほどの光を抱いていたかった。この一瞬のためになら、宿命を放り出してもいいのだと、そう思いたかった。
 そうして部屋の前まで来て、彼が手を離す。

「結婚。……辰巳はいいのか」
「よくなくても、したい」
「馬鹿」

 呆れたように言いつつ、内心では動揺を隠せなかった彼は、ごまかすように意を決したように目を上げて、自ら扉に手をかけた。き、と立て付けの悪い金属が音を立て、懐かしさに包まれ、耐えきれず、ふいに視界が歪み。

「おかえり」




 六月。
 あがいてやるんだ。
 かすかな残滓の中でだって、この六月は幸せに、なってやるんだ。


2017年6月4日

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