「もしあの世界に再び辿り着けたら。」1
蒼穹から滑落して目を開けると、そこは薄暗い路地裏だった。
(デジャヴュだ)
記憶にある方角に歩き、結局はうまく思い出せずにさ迷い、諦める。デジャヴュとはいえいつどこの話だったか記憶できているわけもない。それでも、何かを期待していた、私が馬鹿だったのだ。
ひとまずはこの広大な路地裏から抜け出さねばなるまい。
勘で通りを目指せば、さほど時間はかからずに灰色の濃い都会の街並みが視界いっぱいに広がる。そこでもまた、強い既視感を覚え、さすがに何かを疑い始める私がいた。いや、まさか。しかし、微かに残る過去の自分が私を何処へ誘うのだ。従い、しばらく進むと、ある建物の前で私は立ち留まった。
見上げる。背の低い四角いビル。玄関は二重扉。脇に、ビニール傘が数本立て掛けてある。
「……」
思い出せない。
こんなにも懐かしく思っているのに、何も。
黒々とした空から、突然に激しい雨が降りだした。
数分と待たずに焦げあとのついたセーラー服は重く湿って、茶色の前髪が顔に貼り付く。うっとうしさに息をついたところで、水溜まりを踏む音が、隣から聞こえる。振り向くのが、妙に怖く、ただ眼前に目を向けた。
沈黙。隣の誰かは私を見ているのだろう。
「……青空?」
声が。
やわらかな男性の掠れたような声が、ふいに耳を打った。
何に対してかは知らないけど、耐えられない、と思う。だから私は彼とは反対側に踵を返し、濡れながらに駆ける。
「あっ、おい!」
追い掛けてくる。
侮るなかれ、私ははるか昔からおいかけっこでは負け知らずなのだ。足を速め、適当な路地に飛び込む。なるべく読みづらいだろう動きを心がけて右へ左へ。それでも彼は追随をやめない。どうやらプロのようだ。
足を止める。逃げる理由があったわけではない。下手に逃げて人を敵に回すわけにもいかないのだから。
息を切らして、後ろに迫る人影ひとつ。
「なして逃げるん……」
「……」
「あんた、また此処に来た、のか?」
そうなのだろう。私は、過去にここに来たことがあって、それで彼は私と知り合いだったのだろう。そんな感覚はあるのだ。感覚はある。でも。
「すみません。覚えていないんです」
「え……、そうか」
「私を知っているんですね?」
「あぁ」
「それはいつの私でしょうか」
独り言に近い呟きだったけど、彼は知っていたのか答えてくれる。
「最初やんな。あんたが故郷で死んでから一番最初」
「……最初。なるほど。覚えていないわけですね」
振り向くことはやはりできない。背後の彼は、沈んだ声で、ぽつりぽつりと話す。
「ここじゃあんたが消えて二年になる。あんたは?」
「最初からだと……まあ、ニ十年は固いでしょうか。何回か記憶が飛んだので、正確にはわかりません」
「そっか……何か、あったん? 今のあんた、生気がねえよ、二年前よりずーっと」
「……さあ。きっと、あなたには想像もできないことです。ここは見た感じ平和なんでしょうね。まだ戦争が始まっていない……」
苦笑する。
彼は言葉をつまらせ、ただ踏み出し、私の眼前に回った。まだ年若い青年だ。飴色の目は、揺れながら、私の青を見据える。その時点で察した。過去の自分と彼がどんな関係だったのか。
彼は片手に持つ傘を、黙って私に傾けた。
濡れますよ?
言いかけて、遮るように手を引かれる。
水煙で視界が曇る中を、迷いなく進み、先ほどのビルに帰りつくと、一枚扉を経て玄関の前。そこで待つように言われ、私は大人しく従うことにする。
「あ、青空」
「はい」
「言い忘れとった。俺は美山篠」
「篠さんですね」
「ん。じゃ、タオル持ってくるから」
嬉しげにはにかんだ彼は、慌ただしく屋内へ入っていく。
2017年4月1日
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