一章後日談a
無音には程遠く、しかし静寂を保った空間は驚くほどに居心地がよかった。
こんな場所でなら、確かに多少は安らぐことが可能なのかもしれないと思う。でも、こんな良い場所を逃避に使うというのも、はたしてどうなのか。
微妙な心持ちで、細やかな浜の砂を踏む。
「お兄ちゃん、」
声をかけるなり、彼は背を向けたままで逃げるように立ち上がって歩き出す。
「ちょっと! なして逃げるん!」
呼び掛けこそすれ、追いかけはしない。
追いかけたら、いや、私がいまこうしていてさえも、彼が苦しむだろうことは明白だったから、踏み切れなかったのだ。
彼の背はしばらく遠ざかり、波打ち際まで行ってぴたりとそこに留まった。そしてまた静寂が訪れる。青く透明な波の音だけが、辺りを支配した。青い音はとたんに私達から雑念を取り払い、広く黒々とした深淵へ連れ去ってゆく。ふいに、たまらなくなって、小さく見える背が滲む。
慌ててそれを抑え込み、すっと歌うように息を吐いた。
こんな場所で。こんな、圧倒的な静寂に心を侵されて。
彼が、今にも入水自殺をしてしまわないかどうか、心配になる。
駄目だ。
歯を食い縛って、駆け寄りたい衝動に耐え忍ぶ。おそらくは、私だって、私だって不安で仕方がないのだ。二十三人。いや、三十一人、はたまた両親を合わせて三十三人、救えなかった私は! 八人を救い、壮絶な覚悟を明らかにして消えていった私は! 愛する人の私への憎しみを未だ溶かせずにいる私は!
ああ、いっそ、死んでしまいたいよ。本当は、本当は生かしてくれなくてもよかったのだ。親殺しを背負ったまま、こんな弱い存在のまま、何の意志も貫けないまま終わってしまった私など、生かしてほしくはなかったのに。
波が、遠く唸る。
呼応して、心は澄み渡る。
けれどもそれはあまりに哀しい。
歩いた。
水面に向かい、足を動かし、歩いた。
「もう、ええよ。私が……私のこと、ちゃんと背負うから、もう、やめてよ、そういうの」
私の知らぬ間に言葉が溢れる。
押し殺すのは、どうにか間に合って、そこに力が乗ることはなかった。
「青空のこと、私のこと、親のこと、ぜんぶ私、ちゃんと背負うから。お兄ちゃんだけに背負わせんから。辰巳さんのことも、なんとかするから。だから……!」
だから、どうか、もう逃げることのないように。次にこの海にお世話になるときは、きっともっと哀しみのないように。彼の作る歌が、いつか希望的なものとなるように。
祈るように、冷たい潮風にさらされた砂浜に膝をついて、手を組んだ。
その背はまだ動かない。動かないのが幸いなのかそうでないかは、わからない。
泣きそうだ。
駄目だ。
……耐える。
2017年3月25日
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