キーンコーンカーンコーン……。
 そんなチャイムを聞き流して、ふいに少年は、ガタリと音を立ててその席から腰を離れさせる。それからゆるゆると首を振って、少女が開けた扉を潜り、授業中の静かな校舎内に足音を響かせ始めた。
 淡い緑色のリノリウムにひんやりと包まれた廊下で、ぽつりと一人歩く少年は、ゆっくりと階段を登って上の階へと赴く。それから左折して、理科室とプレートの掲げられた教室の前で足を止めた。
 そこでは自分のクラスメイトと、恐らくあの少女も授業を受けているのだろう。少年はしばらくの間ぼんやりとそれを眺め、やがて、興味をなくしたように冷たい廊下をさらに進んだ。その先には赤く光る非常電灯の下、非常階段への出口があり、その扉は風だろうか薄く開かれている。少年は、おもむろにそれを押し開けた。
 ふわり、と風が広がり少年の髪を揺らす先に、錆びかけの赤い鉄で出来た非常階段が見え、少年はそこに足をおろす。カン、と小さく音を立てて降り立つと、後ろ手に扉を閉めた。校舎内へ吸い込まれるように舞っていた風が扉に遮られて止む。
 視線の先には、学校周りの住宅街なんかが下のほうに見える、はずだった。が、気だるげな少年の目が捉えているのは、少々行儀悪く柵に腰掛けた、つい先ほどまで話をしていた少女の姿。
「やっぱり来たね、キミ。ここから飛び降りたいのかな?」
 相変わらずへらりとした笑みをその顔に張り付け、少女は少年へねちこく話しかける。少年ははぁ、と一つだけため息を吐き出すと、口は開かずに目だけを細め、少女へ向き直る。
「その通りみたいだね? ……ならどうぞどうぞ、ご自由に飛び降りてくださいな」
 少女はよっ、とか言いながら柵から降り、端に寄る。少年は柵に近づきはしたものの、呆れたような目で少女を見やるだけで何もしようとはしない。少女はそれを受け、常に浮かべていた笑顔を落ち着かせ、どこを見るというふうでもなくうつむいた。本当に、そこから飛んでも文句は言わないといった様子だった。
 足より下を覗き込めば、住宅の列と太くはない道路が、落ちたら確実に息が止まるであろう所に聳えている。その様子に少年は、ある予感を過らせる。
 また日常に戻ってきてしまうのではないかと。
 少年は、柵から離れた。
「まず、ここなんなんだよ」
 もしも絶てないのならば、飛んだって意味なんてないのであろうから、無駄に死を重ねてしまう前に確かめようと。少年がそれを訊ねると、少女はまたも薄く笑顔を浮かべ、
「やっと口を開いたね、柏木くん。全然喋ってくれないから寂しかったよ」
 などと、少年からすればどうでもいいことを口走る。少年はその言動に顔をしかめ、睨むような視線を少女へ浴びせかけた。
「まあまあ、そう怖い顔しないでよ? しかもそれ、もう言ったじゃんか。私はね、ここは天国だと思うんだ。死んだ後に行き着くパラダイス!」
「……こんなののどこが天国だ」
 即座に、忌々しげにそう吐き捨てた少年は、へらりと笑う少女を前髪越しにまっすぐ見据える。
 日常を絶ちたかった。この世界が嫌いだった。理由なんてものはなく、繰り返される日常に、まれに来る非日常に、この“生”にうんざりしていた。輝かしい将来や幸福なんていらないし、興味もないし、それを求めてがむしゃらに精進する人々に嫌気が差した。苦痛も悲哀も特になく、あったとしても関心などなく、それに苦しめられ泣き嘆き叫ぶ人々にもまた嫌気が差した。何もない日常、そんなにまで何もない自分にこそ最も嫌気が差した。
 だから、こんな日々はいらないと、命を捨てたのに。まだ日常が続くと言うのなら、それは天国などではない、まさしく地獄ではないのか。
「地獄だよ、こんなの」
 小さくだがはっきりと呟いた少年に、あはは、とおどけたような笑い声が届く。それは疑いようもなく少女のもので、少年は続く少女の行動を待った。
「そっか、地獄か。じゃあキミにとってはそれでいいんじゃないかな? 私にとって天国のここがキミにとって地獄でも、私は別に構いやしないよ!」
 あははは、とさらに笑い声は続く。なにがおかしいのか、と少年は言いたくなったが、やがていつものようにそれにも興味をなくし黙った。
 ……そうだ、こいつにとってここが天国でも、別に構いやしない。
 死後の世界。ならば、ここは少年にとって、日常という最悪の地獄なのである。
 少年はまた一つ、すぅと息をついて、扉を引き校舎へと戻っていった。ふわりと風が舞い上がり、それが閉じられると同時にぴたりと止む。
 あはは。
 少女はまだ少し笑っていた。







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