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Fictional forest
「白波、徒然と」

 本を返さなければならないと思った。
 冬の日だった。厚い雪雲が垂れ込め、昼から吹雪になるだろうと言われていた。だからすべての用事がない。
 俺はいつもの鞄にカイロの替えと件の書籍1冊をしまい込んで家を出る。いつもは目覚める時間くらいの早朝だから寒くて嫌になるが、連絡先も知らないし、アポが取れないなら確実にいるだろう時間に会いに行くしかなかった。高橋は早朝に訪ねないと居ない、というのがどこから得た情報かは忘れたが、そうだという確信は残っている。
 吐いた息が白くなって昇る。空は曇って同じ色をしている。
 不吉だ、と思う。白は真理の色だから、毒性があるのだ。
 足を早めた。
 本を借りて別れた秋の日から、高橋とは一度も会っていなかった。学校には当然のように来ないし、教師にさりげなく聞いてみても薄笑いされるだけ。前々からそんなものだったのだろうから心配なんてしないのだけど、手元に残った分厚い文庫本がどうにも異様な存在感を持ち続けていたから、読み終わったらさっさと返してしまいたかった。高橋の都合さえ合えば。
 俺はもう傍観者とは関わるべきでないだろうから。
 夢は思い出さないようにする。夢ではなかったすべてのことも、高嶺に触れようとして散った多くのものが確かにそこにあったことも、俺だけ知っていても仕方がないから。
 車通りのない信号を律儀に待って横断歩道を渡る。山間の町だから市内にはまばらに林が残って寒々しい姿を晒している。少しだけバリバリと霜を踏んで行く。足先が凍りそうに冷たくなるからすぐにやめて、目当てのマンションまでところどころ薄氷の張る歩道を踏む。
 何気なくあろう、といくら内心に唱えても、荷物はいつもより少ないのにいつになく重く感じた。
 わかっていたのかもしれない。
 たどり着いてインターホンを押し鳴らして、しんとして反応がなかったとき、知れず、やっぱり、と呟いていた。
 片側が開けたマンションの廊下には奇妙なほど風がなくて、音がなくて、温度がなくて。
 寒さに震える手で試しにノブを回した。がちゃり、と嫌に明らかに金属が擦れて、その感触に唾を飲む。
 鍵が開いていた。

「……高橋」

 数ミリだけ開いたドアの隙間から冷気が漏れ出ていた。この寒いのに、内側の方が温度が低いのだ。
 いない、と刹那に理解した。少なくとも一晩はいない。鍵を開けたまま? 盗めるようなものも無さそうな家ではあるけれど。
 俺は扉を開けることを決めた。誰もいなくてもとりあえず本を置いて帰ろう。ついでに何かやばそうだったらできることを考えて、何も無ければ帰る。そうしよう、だってこのままUターンしたら普通の意味で夢見が悪くなりそうだから。
 ――えてして扉を開いて気がつく。
 隅の方で埃が層になって溜まっていた。
 高橋の家はいつも掃除が行き届いていたはずだ。

「……何ヶ月いないんた……?」

 まさかずっと?
 何故?
 嫌な想像が――さらに嫌なことに俺には想像と現実の区別がつかない――頭を過ぎって、逃げるように鞄から書籍を抜き出す。早く用事を済ませよう。
 ぽつんと備わった机の上に、音のしないよう書籍を置く。
 部屋は相変わらず寒々しく何もない。とりあえず死体が転がっていなくて安堵する。
 無人。静寂。
 本はそこにもの言わず沈んでいく。俺の手元にあるよりは安らかそうに。
 表題と著者名だけの簡素な表紙。神の在処を問う長大な考察文。俺は頭を捻りながらも理解できた部分については頷きながら読んだ。知っていたからだ。
 神はいる。
 当人はその呼称に首を振りも頷きもできず言葉を淀ませるだろう。実際あいつは誰かを救えるわけでも世界に鉄槌を下せるわけでもない。ただ、ここにいる。ここにいるだけで、波紋はあまたの世界に届く。俺たちの日常にも高橋の家庭にも団長の半生にも届いた。揺るがして、壊し尽くして去っていった。
 息をする。喉をさす冷気をたしかめる。
 本当にここにあるのだろうか。

「……大丈夫」

 視線を上げた壁際に絵が飾られている。海辺に臨む林間のたもとで真理の花が揺れている。その存在が異質であることだけはわかる。高橋はわざわざ絵を飾るような奴じゃないし。
 冷えた部屋の隅、歪みは決定的に遺されていた。

「大丈夫だよ。ちゃんと全部ぼくのせいだ」

 もう治らない歪みだと知っているから、震えた唇で、諦めしか云わなかった。
 踵を返した。早く日常に戻らなくてはならないと心が急かした。神となんて本当にそう関わるもんじゃない。でないと俺もまた壊れてしまう。今が正気かと言われたらそんなこともないけれど。
 これ以上、失わせてたまるか。
 凍てつく街道を引き返す。雪が降り出す前に帰って休みたかった。
 最近また目の色素の変わった恩人が脳裏にちらつく。急速に進む辻褄合わせに比例して、けれど少し遅れてみどりは消えていった。俺がこの目では見たことがないらしい彼本来の色へ還る、その変化に、誰も一言も触れなかった。情報屋である赤羽さんもだ。
 何かが少しずつおかしいまま日々が過ぎていた。おかしさに触れないようにだけ細心の注意を払った。誰もこれ以上奪われたくはなかったから。下手に触れたら、歪みは大きくなる。それだけ水面下で察していたから。
 だから。
 だから、一刻も早く日常に。何気ないままで。帰らなくてはならない。今日だってそのために出かけたはずだ。のに。

「……」

 足は家ではなく、あの廃墟の方角を目指した。
 だって看過できる違和感ではなかった。放っておいたらなにか取り返しのつかないことが起こるような気がした。
 高橋はどこに消えた? なぜ消えた? 生きているのか? ――憶えているのか?
 いつの間にか駆け足になっていた。汗が滲んで、寒さを忘れる。吐く息ばかり白いまま。
 きっと、かつて森と呼ばれた場所に居続けているのだろうと、彼に他に行く場所なんてないのだろうからと、廃墟を筆頭に、市内で特に歪みの強い場所を回れるだけ回った。しかし何が見つかることもなく、重たくなった雲からとうとう白の破片が降りてきたから、今日はもう諦めることにする。
 探さなくては。走り回るうち湧き続けた焦燥は、守るべき日常よりも無性にかたくなだった。しかもひとりでやらなくてはいけない。特に団長は巻き込みたくない。ひみつきちの面々で高橋のことを今も覚えているのは俺だけだからだ。
 とぼとぼと自宅に向かう。明日からのことを考えている。もうしばらく日常へは帰れそうにない。団長や赤羽さんにしばらく会えないと連絡をして、ひとり町を歩いて。俺にできることはどこまであるだろうか。どうしても見つからなければ最後は通報か。
 雪は夏のスコールみたいな早さで強まった。

「やっべ」

 さらさらと煙る町を、滑らないように気をつけながらも急く。ちょっと本を返してすぐ帰るつもりだったのが、市内を駆けずり回ってすっかり時間を食ってしまった。鞄に入れっぱなしの折りたたみ傘を広げる。細やかな氷の重みをずっしりと片手に受ける。
 なにもかもが真っ白で重苦しかった。
 そうかこれからもひとりか、と思うと気が重くなる。
 どうして俺だけ中途半端に忘れられなかったんだろう。消えた認知は確かにあるのに、それが他と比べると足りない。たぶん未だ消えない悪夢の名残のせいだ。この意識の半分に神の残滓が巣食っているから。
 ずっとひとりだったから、これからもひとりなのだろう。
 歩く。

 そして誰もいない路地の真ん中に彼の姿を見つけた。
 前ぶれなく、なんでもない曲がり角の先で。

 おいおい、なんだよ、と思う。今まさにこれから探そうって覚悟を決めようとしていたところなのに。肩透かしはよしてくれ。前々からそういうところでペースが合わなくて嫌だ。
 彼は雪道のさなかに薄着でうずくまっていた。見覚えのある秋服に身を包んで、薄い色の髪を凍らせ。血の気の引いて真っ白な顔をした。
 さして動揺しない自分に驚く。見たことがないはずの死体なんて見慣れていた。
 いいや、まだ、死体かどうかは確定していない。

「……無事かな」

 慎重に歩み寄る。
 意識はないようだった。

「高橋」

 脈を取る。かろうじて無生物の温度ではない。ゆっくりと、血の通う感触がある。
 まだ生きている。
 なにか思うより前に鞄からカイロを引っ張り出して彼のうなじに差し込む。もう片方の手で携帯を耳に当てる。俺にできるのはやっぱり通報だった。この雪だから救急車も迂闊に動けないのかもしれない。間に合わないのかもしれないが。可能性があるだけまだマシだ。だめだったら、それならそれでいいや。このことが団長に迷惑をかけなければ、ひとまず恩人の日常を守るという俺の目標は達成となる。
 肩が震えた。汗が冷えて寒さが戻ってくる。繰り返される緊張と弛緩に心臓が悲鳴をあげた。痛いよ。
 雪灯りで霞んだ視界にいくつもの未来を幻視する。夢を思い出してしまう。しまったと思うのに連鎖して止まらなかった。くらくらり。ある未来で高橋は生きている。育児放棄を見留められ、賑やかな場所に引き取られ、ふわふわと笑う以外の表情を少しずつ獲得していく。またある未来で高橋はこのまま目覚めず、誰も弔いなどしてくれないから直葬で身体を燃やされ、俺だけが墓もない彼に花を手向ける。
 ああ、またか、また俺は友人の不確かな死を見て、誰にも言えず生きていくのか。
 傘の柄を握りしめた手が痛む。

「……あの、救急です。友達が倒れてて」

 喉から出ていく声は平坦だった。俺は嫌いな奴のことになると淡白な人間だった。
 震えているのは寒いからでしかないよ。
 だって諦めている。何が起きたって明日は来る。半生を奪われた恩人だって今も笑って過ごしているのだから。
 遺された歪みに世界が呑まれる日までは。


2021年3月14日

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