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Fictional forest
「きみたちのこと」

 花火を見ている。

 ツカサは、人波のなかにぼうとして立って、空を見ていた。
 轟音をたてながら、色とりどりに花が咲いては散っていくのを見ていた。
 きれいだと思った。心から。
 儚く消えゆくものはきれいだ。
 胸を焦がすこれに信仰と名付けるのなら、
 この夜、光、どよめき、熱気を駆ける寒風こそが神様だ。
 そんなことを頭の隅で考えているうちに、ふと涙が出てきた。
 あれ、と思う。自分は花火に涙するほど感情豊かだった記憶はない。
 けれど出てくるものはしょうがないから、服の袖で拭ってみた。
 そこでまたおかしいなと思った。
 いつ新しい上着を買ったんだっけ――。
 連鎖的に疑問が浮かんでくる。
 まず自分がここにいる理由がわからない。
 気がついたら、ここで、ひとりで花火を見ていた。
 記憶があいまいだ。
 思い出せないことがありすぎる。
 でも、いまは考えないでおくことにする。
 祭が終わるまでは。
 ただ楽しみたい。
 こんなにきれいな夜に、辛気くさいことをいちいち考えるなんて損な話だ。
 人波をかきわけて歩いた。
 水辺を探している。
 花火っていうのは水辺で見るのがいちばんいいのだ。
 水面と空と、二重にかがやきが見られる。
 ツカサはその景色が好きだった。
 ――なぜ?
 わからない。考えない。
 極彩色のかがやく夜を歩く。
 水辺を見つけるのには苦労しなかった。
 その日は昼頃まで雨が降っていたからだ。
 路面に水溜まりが残っていた。
 水溜まりというのも好きだ。
 ちいさく切り取られた水面に波紋が走る。
 何重にも走る。呼応する。歌をうたうみたいに。
 それだけで心踊るものがある。
 ましてやこの夜だ。
 光が降るたびに、どんという音に水面が震える。
 ちいさな水溜まりはさながら宇宙になる。
 星を散らしたようなかがやきが、花火とともに静まって暗くなる。
 暗くなる瞬間にこそいちばん胸を焦がした。
 儚く消えゆくものはきれいだ。
 これは一種の信仰だ。
 ずっと息が苦しい。
 あまり泣くと空が見えないからこらえているのだ。
 けれど長くはもたなかった。
 ツカサはふらふらと人波を抜けて、狭い路地に膝を抱える。
 建物に切り取られた四角い夜に、焔の花弁の端っこが見える。
 苦しい。
 どうして。

 考えてしまう。
 辻褄が合わない。
 なにかが足りないはずだ。
 いいや、なにか、なんて生易しいものではない。
 ツカサには自分が誰かもここが何処かもわかる。
 わかるのに、じぶんの人生の半分以上のことが霞がかって思い出せないのだ。
 たとえば、なぜ母が居ないのかとか、
 なぜツカサは四年前から学校へ通っていないのかとか。
 ほんとうにわからない。
 空白は認識できている。
 なんだ、これは?

「…………っ」

 ツカサは新しい上着を引き寄せ顔をおさえる。
 勿体無いなと思う。せっかくの祭でこんな。
 けれど必要だ。
 この痛みを手放してはいけない気がする。
 わからない、わからないが、たぶんこれこそが過去の空白を埋めるのだ。
 ここに在るなかで、唯一、空白を証明するもの。
 それはこの痛みであり、感傷であり、不安であり、焦燥であり、信仰だ。
 それしか無いじゃないか。
 それしか無いのだから。

 儚く消えゆくものはきれいだ。
 けれどずっと苦しいのだ。

 と、かすかにさしていた光が遮られる。
 見覚えのある顔が、うずくまるツカサを覗いていた。

「月咲。大丈夫か」
「父さん? ……来てたんだ?」

 父だった。
 ツカサは濡れた目を丸くしながら差し出されたハンカチを受け取る。
 また違和感があった。
 ツカサと父とは不仲だったという認識がある。
 だが、そう、なぜ不仲だったかが、わからない。
 わからないから、驚くほど父への嫌悪感がなくなっている。

「他の友達も来てるぞ」
「友達?」
「赤羽ちゃんと福居くん」
「ああ……あれ。そしたら俺達みんなで来たってことか?」

 わからないなりに推測してみると、本当にそんな気がしてくる。
 記憶の空白は都合よく解釈されて、知らぬ間に辻褄が合わせられるのだ。
 恐ろしいことだが。

「みんなはぐれてんの?」
「すぐ集まるよ」
「そう。じゃ、行かなきゃな」

 渡されたハンカチで目尻を押さえ立ち上がる。
 路地を抜けると、少し先でソノが手を振っていた。
 彼女の隣でウミが会釈をする。
 みなのところへ歩く数歩が永遠だった。

「なんで泣いてるんですか、団長」
「いやあ、はは、ちょっと感動しちゃって……」
「うそー。ツカサ、そんなキャラだっけ」

 言葉を交わすのは久々なのに、なぜだかいつも通りを装ってしまう。
 何かを悼むような痛々しさを伴って、みなが笑った。
 瞬間、最後の花火があがった。
 どん、とかすかな地響きが、人びとの胸と水面とを震わせる
 特大の極彩色がまるく闇に焼き付いて、ゆっくりと落ちて消えてゆく。
 それを、誰も、なにも言えずに見つめた。
 ツカサはふいに思い出していた。
 どこで聞いたかも忘れたような些細な豆知識。
 花火は、むかし、死者の弔いに用いられていたという話。
 本当なら、ふざけんな、とだけ言いたくなる。
 去るものへの想いが、こんなに儚くてたまるか。
 哀悼までもが去ってしまったら、本当に何も残らない。
 無に還ることを魂の幸福と言う奴もいるらしいが。
 くそ食らえ。
 きれいでなくて良いのだ。
 きれいなんかでなくて良いから、ずっと消えないものがほしい。
 消えないものがほしかったんだよ。

 祭が終わる。
 ツカサは喪失感のさなかにたたずみ、うつむいた。
 止まらないと思っていた涙も乾いてしまった。

「……帰りましょう」

 ウミが言って、ツカサの手を引いた。
 彼の蒼の目はすぐに色々なことが見えてしまうから、
 ツカサの嘘などとうに見破ったのだろう。
 手を引く力は強い。
 ツカサはされるがままに歩いた。

「ツカサ大丈夫? なんかめっちゃ泣いてたけど」

 ソノがひょいと覗きこんでくる。
 相変わらず顔には目立つ傷があって、見るだけでこっちが痛くなってくる。
 しかし表情は軽快で、からかうように笑んでいた。

「大丈夫」

 いまは彼女のテンションには乗れないので、ツカサはそれだけ返した。
 すこし不満げにされたが、馬鹿話なら後日でもいいだろう。
 そんなツカサたちの後ろを、ヤクが静かに歩いている。
 見守る人がいる安心感など、いったい何年ぶりの代物か。
 そうしているうちに、ツカサは自然と帰る気になっていた。
 ――「帰る気になった」?
 いままでは帰らないつもりだったのか?

 違和感が絶えない。
 絶えないうちはまだいい。
 絶えてしまったら、俺は、湊月咲はいよいよ終わりだろう。
 だからそれまで。それまでだ。
 もう少しだけ。いいか?
 この絶望すべき綺麗な世界に、居残っても、いいだろうか。
 どうかノーと言ってくれ。
 言ってくれれば、『  』のことも忘れないうちに終われたのに。

 終電でひめきに辿り着いたツカサは、自宅やら職場やらへ向かう各々と別れ、ひとり歩いた。
 両耳をふさぐイヤホンからは、まれにぽつぽつと独り言が聞こえてくる。
 通話相手はむろんソノだ。
 この習慣をやるのもずいぶん久々だった。
 なぜ久々なのかは、例によってわからない。
 わからない違和感も、もうただいとおしむだけだ。

 寒風に打たれながら、ツカサは自らの影をかぞえてみる。
 足元からふたつ、光に逆らって薄く延びる影が、かすかにうれしくなった。
 『  』はここにいるのだと思えたから。
 感傷に笑って、夜道を行く。

 家路に街灯は少ない。



2019年5月2日

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