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Fictional forest
「DeletedB」

 それは、過去をめぐる旅からはじまりました。
 公園。駐車場。映画館。商店街。
 小学校前から始発のバスに乗って、降りてまた歩き、
 最初は、わたしの両親の自殺したアパートへ向かいました。
 わたしが明確にひとを殺した最初の場所。
 市の外れ、ほとんど山に近い区画に、ひめきの最貧困地域があります。
 とはいえ農地が多く、食にまで困ることはあまりないのですが。
 働きに出る人は駅周辺で路上生活や、それこそ公園にテントを張りもしますが、
 それも難しければ、このあたりで農地をたずね歩くばかりになるのです。
 わたしの両親は後者のたぐいでした。
 捨値で借りていたアパートは、昔よりなお錆びた外壁をさらしていました。

「わたしはここで生まれたんだよ」

 言って聞かせると、愛しき義弟は実感がなさそうに生返事をしました。
 湊の家は中心部ですから、ほんとうにこの辺りとは接点がないのです。
 塀の水染みに蒼がにじんで見えるのは、わたしだけでした。
 彼にそれを伝えるデバイスはありません。
 わたしは勝手な感傷で笑って、また彼の手を取って歩き出しました。
 もう触れあってもたいして情報は流出しません。
 わたしの力が弱まってきているのです。
 理由はいくらでも考え付きますが、あれこれ言っても仕方がありませんから。
 語らないことにします。
 なにも知る必要はないのです。
 一緒に旅ができればそれで。

 それから、山道を昼のあいだじゅう長らく歩いて隣町。
 かつてわたしの保護されていた施設にも足を運びました。
 わたしの罪のふたつめ。
 施設のことはこのわたしもまだよく憶えています。
 周りじゅうに恨みと羨望と軽蔑を向けてうずくまったじぶんのこと。
 はじめてこの力をひとに用い、狂わせてしまったこと。
 いろいろ、あったのです。あのころは。
 焦げた鉄筋が横たわっているだけの跡地に、わたしはすこしだけ合掌しました。
 立入禁止表示の手前で、義弟は例によって手持ちぶさたに黙っていました。
 ええ、彼には、縁もゆかりもない場所です。
 けれどわたしには大切なのでした。
 わたしの罪のあとを、彼に見せておきたかった。
 見せるだけで、なにも伝えはしません。
 だからこの行為にさしたる意味はありません。
 ちょっと感慨深いだけ。
 でもそれでいいのです。わたしには。
 彼はどうでしょう? 聞かないでおきます。

 そのまた隣町、ちいさな公園で夜を明かしてから、電車に乗りました。
 わたしが明確にひとを殺した、最後の地にむかって。
 電車に揺られるあいだじゅう、ふたり寄り添って眠りました。
 お互い、この時点ですでにくたくたでしたが、文句は言いません。
 遠くさびれた地方都市に降りて、軽くご飯を食べて。
 ふらふらと辿り着いたのは河辺の遊歩道。
 ここについては、今までと逆で、わたしよりも彼がよく知っています。
 彼が秘め、隠し、守ってきたいちばん重たい過去へつづく道を、
 息をつまらせて水面をにらむ彼の手を握って、わたしは歩いていきます。
 清らかな水音の絶えず聞こえる、見晴らしのいいところでした。
 青天井が、とても高くて、おどろきました。
 百聞は一見にしかず。
 秋の空は高いのです。
 そして蒼い。
 一年のどの時期よりも、絶望の濃いいろをしている。
 知識の上では知っていたそれを、わたしははじめて目の当たりにしたのです。
 ただ純粋に思いました。いまでよかったと。
 この日、この時間にここに来てよかったなと。
 まあ、もし何かが違っても、どうせ同じことを思うのでしょうが――。
 それをわざわざ考えるのも無粋でしょう。
 無視すべきことは、無視して行きます。
 これはしがらみを削ぎ落とすための旅ですから。

 わたしは、最後の力を振り絞って、
 彼のなかに残る景色と、目前のそれとを重ねてみました。
 2005年7月20日夜、花火大会。
 過去といまの混じる視界に、ちらちら、極彩色のひかりと蒼とが閃きました。
 ここにはもう咲かない色鮮やかな火の花を、深い蒼のむこうに見ました。
 言うまでもないことですが、
 それは、彼の目が濁ってしまう前の、最後の景色なのです。
 ちょっとだけ泣いてしまって、彼が握る手に力を込めました。
 わたしがふいに川面へ飛び降りたりしないように。

「つきくん、ちょっと休もう」
「うん」

 わたしたちは、義母がさいごに座ったベンチに、同じように腰かけました。

「疲れたねえ」
「疲れた……」
「ちょっと寝る?」
「寝てる間に置いていかない?」
「あはは、疑り深いなあ」
「だって」
「置いていったら、どうするの?」

 わたしは聞いてみることにしました。
 同じ色の視線がまじわって、すぐに逸れてしまいます。
 彼は目を泳がせた末に、答えました。

「どうするんだろう」

 わからない、と。
 すぐそこに飛び込むよ、とは言わなかっただけ、合格です。
 彼はようやっとわかってきたようでした。
 わたしたちはいっしょではない。
 ふたりでひとりとか、そういうものではない。
 互いに知らない過去、知るよしもない想いがあるうえで、各々ここにいる。
 だからね、あまたの中からわたしを選択したのは、きみなんだよ。
 そんなとても簡単なこと。
 恨むべきは、きみ自身か、あるいは。

 知らぬ間にまた眠って、起きて、痛む背中を笑って旅立ちます。
 つぎはどこへ行こうか?
 見たことのないものを見てみようか?
 すこし話して、海へ向かうことにしました。

 移動中はひたすら睡眠。
 目が覚めたらどこかで食事をしてまた移動。
 適当にいい場所があればじっと夜を明かす。
 そうして、一日後、海沿いの町に到着しました。
 食費を切り詰めて、最初に上着を買いました。
 海風が想像以上に冷たく感じられたからです。
 その町はひめきと比べていくぶん都会で、大きな道路に車が行き交います。
 見慣れないすべてが新鮮で、空腹を抱えながらもわたしたちは笑っていました。
 大きな横断歩道の、白いところを踏んで渡ったし、
 舗装道路のタイルの模様をかぞえてもみました。
 駅から海までは徒歩で30分ほど。
 その中腹に神社があって、ちょっとだけ覗きに行きました。
 控え目なたたずまいに、鳥居がやけに大きくて、見上げてしまいます。
 寒風に応えるように群生したコスモスが、本殿の軒下から揺れています。
 数秒拝むだけ。
 手順も何もなく軽い参拝をして、わたしたちはすぐにその神域を出ました。

「ここに神様は居ないんだよな」

 彼がふいにつぶやきます。
 わたしたちは鳥居を振り返って、一礼して、海への街道を進みだしました。

「居るんじゃない?」
「そう?」
「信仰対象、だよ。神様って言葉に、それ以上の意味はない。それにね」

 ふと風がやんで。
 街道の先に、ぼんやりと海が見えはじめます。

「ひとは存在しないものに想いを込めたがるからね。または、絶対に触れることができないほど、遠くにあるもの。理解できないもの。つまりね、神様が居るのは、神様が居ないからなんだよ」
「ややこしいな……」
「わたしの追ってたかみさまも、そうなんだと思うの。彼が神たりえるのは、彼がわたしたちの届かない場所にいて、よくわからない存在だから。それが届いたら、理解できたら、彼は神ではなくなってしまう」
「それってさ、」
「うん」
「どこまでわかっていれば、わかったことになるの。どこまで接点があれば届くことになるの。……その感覚によっては」
「そうだね。どんな些細なものやひとも神様になるんだよ、つきくん」

 堤防を降りる階段の手前まで、そんな話をしていました。
 過ぎたことを言い合う、不毛な時間も、なんだか楽しかったのです。
 緑と花と枯れ葉とアスファルトと潮のにおいがしました。
 街道は徐々に舗装が甘くなって、ひび割れた路の端に砂利が溜まっていて。
 きのうから続く秋晴れが、空のずっと向こうまで光を散らしています。
 そのすべてに触れて理解するって、どういうことだろう。
 考え出すときりがないのです。
 世界のすべては途方もなく遠く曖昧な場所に在るから。

「ひろいなあ」

 青灰色の水平線にむかってこぼした言葉はそれだけでした。
 砂浜へ降りてみると、およそ経験のない柔らかい地面に、転んでしまいます。
 買ったばかりの上着を白砂に汚して。
 見ると、きれいな形の貝殻がいくつも転がっていました。

「みて、かわいいよ」
「でも歩きにくいなあ」
「ぜったい踏んじゃうねえ」

 引っ張り起こしてもらって、えっちらおっちら、海岸線へ。
 寄せては返す、という表現のほんとうの意味をはじめて堪能します。
 潮水が迫るたびにきゃーきゃー言って逃げたり逃げなかったり。
 波が引くと、足元の砂がものすごい勢いで沖へ浚われていくのです。
 知らないことばっかりだ!
 わたしは笑い続けました。
 疲れたら、堤防に座って休憩。
 目覚めて、またなにか見つけて遊んで。
 気づけば、日が暮れはじめていました。
 風は凍えそうに冷たいし、さすがに海辺では夜を明かせません。

「そろそろどっか泊まろうか。限界でしょう?」

 わたしもそろそろ身体が限界です。
 空腹だし、全身が重いような痛いような気がします。
 とりあえず、コンビニでご飯を買って、軒先でふたり、立ち食いをしました。
 そしてまた少し町を移動して、できる限り安いホテルをとりました。
 小さな一室にベッドがふたつ。
 たったそれだけが身体にありがたいのです。
 真っ白なシーツは、それこそ神々しくも見えました。
 もう雨風防げるだけでもいいくらいなのに。

「はーっ、しあわせだあ」

 ひとりずつシャワーを浴びて、ベッドへ飛び込みました。
 日の暮れたばかりの頃にもう電気を消して、わたしたちは目を閉じます。
 そういえばわたしたちが同じ時間に眠りにつくのは珍しいことでした。
 夜営のうちは気にする暇もなかったので、いまさらうれしくなります。
 にやける顔にふとんを被せてうずくまると、隣から声が飛んできました。

「松理」
「うん?」
「そろそろ、聞いていいか?」

 どのことだろう。
 潜ったばかりのお布団から顔を出して、彼の方を見ます。

「なんで、母さんを殺したんだ」

 それかあ。
 それもそうです。
 彼に蓄積した恨みの原点にして全貌。
 わたしは仰向けになって、月明り頼りに天井を眺めながら考えます。
 どう伝えればいいだろう。

「お義母さんには神様がいなかったんだろうね」

 ゆっくりと目を閉じて。
 眠たくてたまらなかったのに、義母を思うとしんと頭が冴えてきます。

「想いを込める相手がなかったんだよ。どこにも。逃げたがってた。だから、かな。いつ、どこで、どうすれば人知れず消えることができるか、それだけ伝えたの。それにね、そう、わたしには都合が良かったんだ。お義母さんがいない方が動きやすかった。だから、言い方を悪くすれば一石二鳥だったの」
「……」
「許せない?」
「うん」
「そうだねえ。でも、言い訳だけするとね。飛び込んだのは、まちがいなくお義母さんの選んだことだってこと」
「じゃあ母さんは、置いてったの、俺たちを」
「そうかもしれないね」

 ふうと息をついてごろりと彼に背を向けます。

「わたしもきみを置いていったし。きみもわたし以外のぜんぶを置いていったんだよ……」

 いよいよ、シーツのあたたかさに包まれ、至福のまどろみがやってきます。
 ――目を覚まして朝になったら、この話はおしまい。
 彼の恨みも、ある程度はこれで区切りがつくといいな。
 あしたはもっと世界が美しいものになればいい。
 それだけ願って、眠りにつきました。


2019年4月30日

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