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Fictional forest
「彼らのことA」

 ウミはノックの音で目を覚ました。
 また学校から電話が来たと、母の声が伝える。
 飛び起きて受話器をとる。
 悪夢障害を訴えた生徒がみないっせいに登校してきたと担任が話した。
 生徒たちに聞けば、口々に連日つづいた悪夢が昨夜はなかったと言ったらしい。
 終わったのかもしれない、と伝えられた。

「終わったんだと思いますよ」

 ウミは息をついて答えた。

「もうすこし落ち着いたら俺も学校行きます。必要ならお話はそのときで」

 通話を終えた受話器を部屋の出口に立っていた母に返した。
 聞き耳を立てていたらしい母が、あんた学校行くの、と驚いた声で問う。
 行かない理由がなくなったら行くよと答えて、母を追い出して身支度をはじめた。
 制服はまだ着ない。
 普段通りの適当な私服姿で、家を出た。
 とりあえずは基地へ向かう。
 もう誰も来ないのかもしれないな、とふと思った。
 それならそれで、ひとりでゆっくりして帰るだけだ。

 道中、ツカサに電話を入れてみることにした。
 出ない。
 昨夜もそうだった。
 夜になって心配になって飛ばしたメールが一時間しても帰ってこないから、電話をかけたが出なかったのだ。
 もう基地のことは絶ってしまったのか。
 あるいは死んでしまったのか。
 どちらにせよいまのウミにできることは基地に行くことだ。
 いつかあるかもしれない何かのためにあの場所を守っておくことだ。
 そう思っていた。
 ただ、飽きたらやめるつもりでもいる。
 そうしたら学校へ行く。
 もう過去にはとらわれすぎたくないのだ。

 ひつじ雲がのびのびと広がる青天井の下を歩く。
 朝方の駅前通りはほとんどシャッター街で、雨上がりの風と埃のにおいがする。
 少し前までは残暑に焼かれていたアスファルトはすっかり冷えきっていた。
 もっと冷えれば本咲きのコスモスがいっせいに背比べをはじめるだろう。
 秋の時の流れは早い。
 まだみどり色の多い駅前公園もすぐに枯葉に覆われることになる。
 その頃にはもう此処には自分を含めた誰もいないかもしれない。
 そんなことを思いながら基地の入り口をくぐる。
 無人だ、わかっていたが。
 だって、誰もがツカサを中心に集まっていたのだ。
 いまのウミだってツカサが帰ってくることを期待しているだけだ。
 ツカサが居なくなったら、それで終わる居場所だった。
 ウミにとってはただ唯一の安らげる場所でもあった。

 定位置に腰を落ち着けて、習慣に倣い本を開く。
 きょうはセイから借り受けた本だ。
 昨日、ツカサと別れた後に渡された。
 セイは、あっても俺は読めないから、と言って笑っていた。
 大切な本なのだろうなと察した。
 だから、なるほど、読める誰かに持たせた方がいいのだ。
 借り受けて、お前が読めるようになったら返すよ、と約束したのだった。
 基地のテーブルにひじをついて、みっちりと紙を埋める文字列に目を走らせる。
 想像以上に小難しいことばかり書いてあって、ウミにも理解がぎりぎりだ。
 この本をセイに返すのは、当分、先になりそうだった。

 読みはじめて五分。
 集中してきた頃合いになって携帯が震えだして、ウミは肩を跳ねさせた。
 電話着信。ソノからだった。

「……赤羽さん。どうしたんですか」
『湖くん、団長知らない?』

 言うと思ったよ。
 内心でつぶやいて、片手間に本にしおりを挟む。

「連絡つきませんね、昨日から」
『だよね。私、家にも行ったんだけど居なくて。どうしよう』
「どうって、探すんですか」
『探さなきゃダメ』

 向こうの声音がやけに焦っている。
 珍しいことがあるものだ。
 ウミは考えた。彼女に協力するかどうか。
 考えるまでもなかった。
 せめて無事を確認したい気持ちはウミにだってある。

「いま俺、基地にいます。駅前で会いましょう」

 本を鞄に仕舞い直して席を立つ。
 来た道を引き返して駅前通りを過ぎる。
 駅口のベンチでぼうとしていると、ソノが薄紅色の自転車で駆け付けた。
 彼女はきゅっとブレーキをかけて自転車に跨がったままウミに向き直る。
 疲れた顔には大きな傷がなおさら痛々しい。

「夕食のあとがあったの。団長の家に、ふたりぶん」

 挨拶もなく話し出した。
 急いた声に、ウミはいよいよ何事かと立ち上がる。
 いやちょっと待て、一言目の情報量が多い。整理する。
 ソノはツカサが心配になって家に行き、誰も居ないことを確認、
 それから中に入り、ふたりぶんの夕食のあとを見つけたということか。
 当然のように家に入っているのは、この際、流した方がいいのだろうか。
 ちなみにあの家のキッチンの窓は磨硝子だから外から中の様子は覗けない。

「えっと、ふたりぶんって……。団長、その、ご家族は?」
「団長は独り暮しだよ」
「じゃあふたりぶんって」
「……わかんないけど、ともかく団長は生きて一度は帰ってきたってことだよ。でも連絡つかないの」
「じゃあ、また森に行った?」
「それもあるかもしれないけど……お金が持ち出されてたんだよね。よく知らないけど森にこもるならお金は要らないんじゃないのかな」

 家宅捜索したのか? というかどこに金が仕舞われていたか調査済だった?
 ツカサがそんなことを許可するわけはないし、あきらかに犯罪では。
 突っ込みたいのは堪えて、まず彼女の言わんとしたことを受けとるに徹する。
 ようするに。

「遁走とんそう……ってことですか」
「たぶん……」

 ソノが不安げにうなづいた。
 なるほど。
 ウミはひとまず可能性を理解して、考える。

「団長の知りあい、みんな当たりました?」
「まだ。湖くんが最初」
「……高橋のとこに行きましょう。ひとまず、森に視察を出します」

 提案して、ウミはソノの自転車を、後ろにソノを座らせて漕いだ。
 あまり運動をしない身体には少々つらい仕事だが、これがいちばん早い。
 セイの家までの道中、ソノが後ろで事の詳細を語る。
 ツカサの家に見た、『そこにふたりがいた』痕跡のこと。
 リビングに携帯が放置されていたこと。
 月の生活費が封筒ごと持ち出されていたこと。
 結局、我慢ならずにウミが不法侵入について聞くと、苦笑いが帰ってきた。
 触れないことにした。
 そうしてコンビニの端に自転車を止める。
 鍵をかけるのも惜しんで階段を上がったソノに息を切らしながら続く。
 いい加減に見慣れたマンションの扉の前で、インターホンを押した。
 幸い、セイはすぐに出てきた。
 玄関先に立ったまま、声を潜めて経緯を説明する。

「……そうですか、逃げたんだ……」

 ぼうとつぶやいて、まあいいですよ、行きますよとセイが微笑んだ。
 礼を言って、彼にウミの携帯電話を託す。
 視察が済んだらソノの携帯を介して連絡を取るためだ。

「あのひとの意思なら、逃避行くらいほっとけとも思うんですけどね、どうせ、悪いようにはならないか、悪いようにしかならないんだし……」

 淡く笑んだままからっぽの息を吐いて、セイがひとり廃虚へ向かった。

 視察を待つあいだ、ソノとウミはシヅキの元へ向かうことにした。
 入院中のシヅキがなにか知っているとも思えないが。
 藁にもすがる思いだった。
 ちなみに、シヅキの入院をふいに聞かされたウミは、
 さすがに驚いて、しかしすぐに納得した。
 この一連の件で最も顔色が悪かったのはシヅキだったから。
 そしてまた二人乗り自転車を飛ばした。
 ソノも面会に来るのははじめてだと言う。
 本人が会いたがらないらしいから荷物だけ届けて病室へは行かなかった、と。
 だが今はそんな場合でもない。
 受付で問うとすんなり病室を教えられて、ふたり白い廊下を歩む。
 ウミが控えめにノックをしたところで、部屋の向こうからどうぞと幼い声が聞こえたからいちばんびっくりした。
 ソノもこれには面食らって、しばらく何も言えないでいた。
 オフホワイトの室内。
 静けさに支配された日陰に、両目に包帯を巻いたシヅキが背を伸ばしている。
 ウミは、すぐ、彼がいつもの髪飾りをもう付けていないことに気づいた。
 眠るときですらはずしていたのを見たことがないのに。

「しいちゃん、」問おうとして、シヅキが遮るように口を開く。
「どうされたんですか。お二人とも……お疲れですね?」

 ウミはおとなしく開きかけた口を閉ざす。
 そうだ、いまは、彼のことはいい。
 欲しいのはツカサに関する情報だけだ。
 まだ驚きの抜けないソノをよそに、ウミがひとつひとつ事の顛末を説いた。
 シヅキは最後まで黙って聞いていた。
 ただ、行儀よく膝に重ねられた手が真っ白になるまで強く握られていた。

「そう……逃げたのですか。あのひとは」

 『彼女』にかかわったふたりとも、同じことばを吐いた。
 非難と諦念のニュアンスを含む。
 ウミもソノも、その真意はうかがい知れない立場だ。
 想像するしかできない。
 この件をとりまく全ての中心にあったという、決して見えない孔のことを。
 ちらと顔を見合わせると、ソノは俯いてしまった。

「まだ決まったわけじゃ、ないけど」
「いいえ。逃げたのでしょう。それなら、行く先は決まっていますよ……」

 シヅキは見えない目を伏せてあっけなく答えた。
 端で縮こまっていたソノがぱっと顔をあげる。
 ウミも彼の手をじっと見た。
 力の込めすぎか、かすかに震えていた。

「赤羽さん。日付と、場所がいちばん近い、花火大会をお探しください。あのひとなら、かならずそこに見えます」

 直後にセイから連絡が入った。
 森は、森だった場所には、もう人も木々も何も無くなっていた、と。


2019年4月27日

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