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Fictional forest
「きみのことA」

 変わらない部屋の片隅に変わらない見た目の彼女が居る。
 十四年も使い込んだ段ボール箱はもう棄ててしまった。
 変わったことと言えばそのくらいか。
 あとは、彼女の認識では、彼女がここに来るのは初めてだということ。

 ツカサは窓を叩く雨水をベッドに寝転がってひっくり返った視界で見ていた。
 心境の整理をつけたい。この雨雲が去るくらいまでは。
 彼女が帰ってきた。
 ずっと望んでいたことだ。
 長年の想いが叶ったわけだが、どうもそんな感覚がしないのだ。
 彼女はいま30センチだけ隣でぼうとしている。
 たしかに此処に居る。
 けれども自信が持てない。
 この彼女が、ツカサの望んだあの日どおりの彼女かどうか。
 外の世界を知っている、ツカサのことを伝聞でしか知らない彼女は。
 ツカサが命ごととらわれてきた彼女とは違う気がしてしまう。
 四年の空白が、想いを地続きにはしてくれない。
 ましてや彼女はツカサを忘れている。
 力によって事実の確認はできても、
 それが自らの記憶である実感は永遠に失っているのだ。
 彼女の、ツカサへの感情は、あの日の彼女のものではない――
 そう思うと、問い質したかった言葉の幾つもがかたちを失い宙をただよった。
 彼女には言うことがない。
 言うことが、ないのだ。

 ツカサの中の彼女は四年前の夏に死んだ。
 死者はよみがえらない。
 わかっていたけど。

 少し前の会話を思い出す。
 森を出て、ツカサは素足の彼女を背負い町を歩いていた。
 雨が降りだしていて、背中に居る彼女が傘を持って。
 傘のなか。雨に閉ざされた空間で、ぽつぽつと言葉を交わした。

「あのね」
「うん」
「わたし、もう隠れるのはやめようと思うの」
「……うん」
「一緒にどこか、見に行こうよ、つきくん。町に出よう、遊びに行こう? それが、終わったら」
「わかってる。……死んでもいいよ」

 本心で言った。
 一度捨てた命のことなんて、どうでもいい。
 彼女が望む通りにしよう。
 それでいいと思うことにした。
 ポケットのなかで、何回か、携帯が震えた。
 もう見ないことにした。
 晴れがましい気持ちになった。
 なにかを諦めてもいた。
 もうなにも思い出さなかった。
 彼女のこと以外はなにも。

 道中、彼女が急に傘を閉じたときはさすがにびっくりした。
 その隙に背中を降りた彼女が、くすくす笑いながら傘を手に駆け出した。
 濡れた髪が、ちょうど点灯しだした街灯に透けてきらめくのを見ていた。
 楽しそうだ。
 だからもうなにも要らなくなった。
 満足してしまったのだ。
 満足した脳裏で失ったものを数え始めた。
 探し求めてきた過去がやっぱりこの手には残っていないことを理解していた。

 濡れ鼠になった彼女に玄関先でタオルをかぶせて、すぐシャワーに向かわせた。
 それから少しだけ、携帯を開いた。

【2009/9/26 16:37】

 着信メールを確認せずに電話帳を開いて、父の名前を押す前に躊躇する。
 けっきょく時刻を見ただけで電源を落としてしまった。
 色々と、してきてしまった約束を、そうしてすべて投げ出した。

 シャワーを終えた彼女に服を用意して、ツカサもついでにシャワーを浴びて、ふたりでこの部屋に戻ってきた。
 戻ってきたと思っているのはツカサだけだけれど。
 彼女がいつかと同じようにくつろいでいるから錯覚が起きるのだ。
 彼女は帰ってきたのではなく、新しくやって来たのだ。

 ふたりぶんの夕食を作った。
 部屋に持っていこうとして、箱がないことを思い出して彼女を呼ぶ。
 彼女とダイニングテーブルを囲むなんてはじめてのことだった。
 彼女は気にしたようすもなかったけれど。
 気まぐれに、ツカサがいままで食事はどうしていたのかと問う。
 彼女は簡潔に、摂っていない、と答えた。
 あの場所にいる間、命は動かないから、と。
 色々と理屈があるらしい。
 それももうどうでもいいことだ。
 ただ、しばらく彼女の語る世界の秘密を聞いて、聞き流した。
 食事は、いつもよりはおいしく感じた。
 それから、ふたりぶんの食器を洗っていると、ふいに涙が出てきた。
 止まらなくなってキッチンにうずくまる。

「つきくん」

 彼女がぱたぱたやってきてツカサを呼んだ。
 流し台の銀にみどりが映っている。
 ふと、じぶんの目が元は違う色をしていたことを、思い出した。
 思い出したくなかった。

「わかんない」ひとりでに口が動いた。「まつり、」

 ――ツカサの守ってきた記憶が。
 彼女とのつながりを保つためのものだったなら。
 この違和感はなんだろう。
 なにが違っているんだろう。
 彼女の記憶か?
 違う。
 違うだろ?
 いまの彼女はツカサの中の彼女そのものだ。
 むしろ前よりも近いはずなのだ。
 彼女は、みずからのなかの空白を、ツカサの記憶で補っているのだから。
 彼女について違和感なんかあるものか。
 無い。
 彼女は彼女だ。
 だから違うんだ。彼女のせいにはできない。ほんとうに違うのは。

「わかんないよ」わかりたくない。「酷い。松理。酷い」

 責めていた。
 泣いて塞がった喉で酸素を求めて必死になって、
 薄れた思考の隅で彼女を責めていた。
 そうやって、逃げていたいから、思考を再開したくないから泣き続けた。
 彼女は隣にいた。
 どんな顔でツカサを見ていたかはわからない。
 ただ放置された水道を黙って止めて、ツカサにタオルを渡してくれた。

 わかっている。
 変わってしまったのはツカサのほうだ。
 恨みで目が曇ったのだ。
 彼女への、母への、父への、基地の皆への、じぶんへの恨みで。
 認識はゆがんでしまった。
 もうこの夜もツカサには美しくない。
 ツカサはもう彼女の目にはなれない。

 泣き疲れた頭でやっと認めた。認めてしまった。
 夜が深くなっていた。雨が止んでいた。
 ずっと隣に座っていた彼女が、少し痛そうに腰をあげて笑う。
 ツカサは放心して彼女の笑みを見つめた。
 いつだって笑っている。彼女は昔も今も。ただ明るく、やさしく、楽しげに。
 それは、もしかしたら、
 ツカサが思い出を願望に代えてしまったせいかもしれない。
 証明するすべがない。

「だいじょうぶだよ、つきくん」

 彼女がツカサの手を引いた。
 ただあたたかいだけの諦念が、かすかに流れ込んできた。

「そのために、往くんだから」


 ふたりはその夜も明けないうちに旅立った。
 溜めていた生活費と少ない着替えだけを持って。
 携帯電話は置いて行った。


2019年4月25日

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