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Fictional forest
「ぼくのこと」

 その日、ぼくはまたひとつ、世界がゆるやかに閉じてゆくのを眺めた。
 不思議と最近はぼくにも感傷というものが戻ってきている。
 去るものを惜しむほどではないが、へえそうか、と呟きたくなる程度の。
 黙ってやり過ごせない程度の。
 けっこうすごいことだよ。ぼくにとっては。
 それはひどく懐かしい経験で、連鎖的に、さまざまに思い起こされる。
 ぼくがまだ心を持っていたとき。
 ぼくがまだ名前を持っていたとき。
 そんな時代が、どこかに存在したのだ、それを思い出した。
 内容? ――それが思い出せたら誰も苦労しないさ。
 きみも。ぼくも。

 それにしてもきみはすぐに無力を嘆くね。
 無為だったと後悔しながら別れを告げる。
 そうかい? ほんとうに?
 ぼくは、ぼくにとってはそうではないんだよ。
 わかってるだろ?
 ぼくらは同じ人間だ。
 些細で無為なことの蓄積が計り知れぬ意味を秘めることを知っている。
 あるいは、知っているから、嘆くのか?
 この別れが、いつか起きるなにものかを引き起こした要因の、ほんの一部分に成り下がることが、許せないか?
 その絶望もまたなにかの一部分に成り下がって終わるだろうけれど。
 だったらきみのその絶望は、なんなんだろうなあ。

 考えてみようか。
 問題はスケールだ。
 どの次元で、なにに着目して考えるかだ。
 きみたちの一喜一憂というのは個人という次元のお話だ。
 個から集合体へ、たとえば町やら国やら、
 こんな簡単に挙がる次元で、もうすでに個の事情なんて些細なことになる。
 ましてや星、宇宙、世界とか。
 そこまで行くと地球そのものが馬鹿らしく見えてくる。
 高く、遠く見るほど、すべてはどうでもよくなっていくんだ。
 この現象は時の流れにも呼応すると思わないか?
 未来、これは何が起きるにしてもそれを意識するのは特別で重たいことだ。
 意識の上に置かれる未来というのはたいていとても限定的だからだ。
 スケールが小さい。
 そうやって未来として重たく思われたできごとは、やがて現在という地点を通過する。
 そして、現在を過ぎたものたちは、徐々に些細なことへ成ってゆく。
 ごみくずになった記憶の残骸を蓄積してゆく。
 ようするにだ。
 きみは常に『何か』から遠ざかっているんじゃないか?
 大きくなっているんだ、スケールが。

 では、なにから遠ざかっているのか?
 簡単だ。
 世界――そのものだよ。
 観測者各々の命と考えてもいい。

 ぼくらは生まれたとき、座標で言ってちいさな点にすぎない。
 点に近かった頃、つまりこどもの頃ほど生きるのは尊く精一杯なものだ。
 そして大人になるにつれて、存在は命の起点から遠ざかる。
 60兆も細胞があり、まして過去になった起点は、きみたちにはどうでもよくなる。
 きみは世界から見放されてゆく。
 あるいはきみが世界を見放してゆく。

 そういうことだよ。いや、これはぼくの勝手な言葉遊びだけれど。
 でもこう考えるとバランスがとれているんだ。
 倒錯していると言ってもいい。
 ほんとうの尊さは過去にあるのに、ほんとうに尊く思えるのは未来だけなんだ。
 過ぎ去ったすべては無数の塵の中に埋もれるだけ。
 忘れていくだけだ。
 きみはその倒錯が気に入らないんだろう。たぶん。
 尊い過去を抱いていたい。空虚な未来なんかいらない。
 忘れたくない。

 せいぜいがんばってくれ。
 残念ながらいまのぼくにはそうとしか言えない。
 ただひとつだけ、知識人のぼくからアドバイスだ。
 過去は、小さくはなるが、けっして消えてはくれないよ。
 それを希望とするかどうかはきみ次第。

 あとはそうだな、ぼくの感想を、いちおう述べておこうか。
 今回のきみの試みは。面白かった。
 そして懐かしかった。
 きみの望むものは得られなかったかもしれないけれど。
 ぼくは、すこしだけ、心を思い出したんだ。
 いまは、それだけでいいことにしてくれ。

 町の片隅に立ち現れた少年が笑う。

「ここもおしまいかー」

 片手に菓子入りの紙袋をひとつ抱えて、夕立前の日陰で空を見ている。
 少年は、目を開き、声を出して話すが、ほんとうは眠っている。
 その口でことばをかたどっているのは、彼の意思ではない。
 端的に言えば、少年は操られているのだ。
 誰に? ――というのも詳しくは知らないが探求者のひとりらしい。
 その魂だけで誰かに宿る力でよくぼくについてくる。
 あるいは、彼が見つけた場所にぼくが付き合わされたりする。
 もう慣れた。
 個人的に、ぼくはこれが面白いと思っている。
 ぼくも意識のみが主体である点で似たような性質だから興味深いのだ。

「で、次はどうすんだ?」

 ふいに問われた。
 少年の背に湿った風が吹き始めた。
 ――さあ、どうするかな。
 いまはなんだか無心に漂う気分じゃない。
 もっと楽しいところに行きたいな。

「じゃあまたなんか探してみるよ。派手でエキサイティングでサイケデリックな世界をさ! 見つかったら報せるから。ついてこいよな」

 そうか。好きにしてくれ。
 気が向いたらきみのところへ行くかもしれないから。

 少年はまたひとつ笑んで、バス停の屋根の下に座ったまま意識を手放した。
 さあ、ぼくもそろそろ行こうか。
 いや待て、その前にもうひとつ、いまのぼくからお願いだ。
 過去を愛するきみへ。
 つまり未来のぼくへ。

 いつかきみの答えを聞かせてくれよ。


2019年4月24日

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