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Fictional forest
「きみのこと@」

 見ないでくれよ、と笑ったから、ふたりは神妙に頷いてどこか去っていった。
 ウミは、かすかに心配そうに。
 セイは、あきらめたように笑って。
 昼時のひめき駅前で。
 すがすがしい別れだった。
 それから、ツカサはひとりで儀式をおこなう場所を選んだ。
 あの廃屋でも良かったが、どうせならもう少し自分らしい方がいいと思った。
 なぜなら、ほんとうに死ぬ可能性はじゅうぶん存在するからだ。
 そう考え直すくらいの心の余裕ができていた。
 覚悟が決まったとも言う。

 ぎぎぎ、と錆びた音が、どこからか聞こえるこどもたちの声と混ざる。
 壊れたままのフェンスは、記憶通り、人ひとりを簡単に通した。
 懐かしい、とは感じなかった。
 ずっとあの頃のままで、記憶が留まっているから。
 小学校の裏庭。
 あいかわらず校舎の陰になって暗くじめじめしている。
 だからか、なんとなく怖がって近寄らない子が多いのだ。
 この昼間、まだ授業があるうちはなおさらだった。
 とはいえ時間はあまり残されていない。
 低学年ならもう少しで授業が終わってしまう。
 やるなら迅速に。
 ツカサは裏庭の片隅、池の前にしゃがみこんだ。

 この池には、昔は鯉がいた。
 ツカサがまだ低学年のころにいなくなった。
 餌やり当番が、この場所を嫌ってサボりすぎたから、餓死が出たのだという。
 魚の死体の浮かぶ池が、なおさらこどもをここから遠ざけた。
 あとは連鎖的に。
 学校はいつしか鯉を飼わなくなって、池だけが残った。
 不気味なエピソードがあるからには、ここが当たりである可能性は高いだろう。
 孔は黒くてぶきみなものだ。
 なんとなく、そう思ったのだ。
 それに、やはりツカサが死ぬなら水死がいい。
 母の姿が、まだ瞼に貼り付いていた。

 持参したビニール紐で左手と左足を結び付け、上から粘着テープで固定する。
 それ以外の荷物は無い。置いてきた。
 ふと校舎を見上げ、ごめん、とつぶやく。
 学び舎を死体で穢すようなことがあったら、ごめん。
 謝るだけだ。やめはしない。
 目を閉じ、なるべく音のしないようにゆっくりと、水中に身を投じた。

 池は立てばこどもの腰までほどのかさしかないが、この体勢では全身が沈む。
 濁った泥混じりの水が口から体内に流れ込み、ツカサは大きく泡を吐いた。
 不快だと思えるのも一瞬で、すぐさま息苦しさが胸を思考を圧迫する。
 酸素がほしい。息を吸う、泥水が喉にひっかかる。
 まともに動けないから奇跡的な浮上もありえない。
 苦しい、苦しいが――
 身投げへの後悔も死への恐怖も、たぶん一瞬で過ぎ去った。
 それからぷつんと何かの糸が切れて、苦痛がふわふわとした恍惚に変わる。
 ほとんど見えない目にちかちかと光が入る。
 まぶしい。気分がいい。
 死ぬってこんな感じか。
 ふと納得した。
 母もこうやって死ねたのだろうか。
 それは――よかった。
 てっきり息苦しいばかりでこの世を去ったのだと思っていたから。

「……よかった」

 息をする。できている。
 目を開く。視界を覆う背の低い草がやわらかにそよぐ。
 ツカサは起き上がってまずテープと紐を外した。
 泥水はどこにも残っていない。
 見事になんともなかった。
 ちょっと信じられない。
 草木に触れてみる。
 どこか作り物めいてはいるが、たしかに感触がある。
 少し遠くから水音がする。
 清らかな音の間に木々がざわめく。
 夜の色の光が降る。
 ――ここが神域。
 彼女のこころのなかだ。

 背後にかすかな足音がした。
 振り向くのには、勇気が要る。
 言いたいことはまだ定まっていない。
 けれど思ったよりは緊張もない。
 あまりにこの神域は居心地がいいから。
 二人で眠ったあの部屋と同じにおいがするから。

「……ひさしぶり」

 意を決して振り向く。
 彼女がうつむいて立っている。
 腰まであった髪が短くなって、肩口で揺れている。
 真っ白で細い素足で草を踏みしめている。
 ツカサは一歩、彼女に近づいて、右手を差し出した。

「松理、」
「つきくん」

 ずっと聞きたかった声がした。
 ちいさくて細い、それでいてどうしても耳を引かれる声音。
 なにもかも間違いない。
 彼女がここにいる。
 なぜだろう、ツカサはもうそれだけでいいような気がしてしまった。
 言いたいことは山ほどあったのに。
 責めたいことが山ほどあったのに。
 この充足感はなんだ。
 死がもたらした幸福感が抜けていないのかもしれない。

「だめだねえ」

 彼女が顔をあげる。
 記憶と寸分たがわぬ笑みで。

「だめだ。わたしはほんとうにだめ」
「なにが」
「神さまに向いてないんだよ」

 ツカサのそれと同じみどりの目が細められる。

「ね、つきくんは、なんで消したと思う? わたしのきおく」
「……目的に集中するため」
「正解、やっぱり察しがよすぎるよね、つきくんは。それでね、消したものってどうなるかな?」
「戻らない」
「正解。もうぜったい戻らないよ。それはそう。でもね、つきくん」

 笑顔のまま彼女がツカサの手を取り、引いた。
 細身からは想像のつかない力で。
 脱力していたから簡単にふらついて、そのまま仰向けに倒れ込まされる。
 やわらかな草がツカサの背中をそっと受け止めた。
 葉の織り成す天蓋から降る光を、彼女の頭が遮る。

 唇が重なった。
 知ったにおいの吐息に、いっそうあの日々を想う。
 胸を焦がす望郷が、唇から流れ込む感傷と混ざって苦しい。
 どちらがおのれの感情だろうか。
 境界の喪失。
 自我を保とうと必死になる。
 いや、自我ってなんだ。
 ツカサの自我は彼女を想うことだ。
 境界のむこうへ飛び込む。

「っ――」

 見せられているのは昔のような彼女の夢ではない。
 彼女自身だ。
 暴力的な感傷に頭を掻き回される。
 耐えがたい激情が涙に代わって落ちる。
 幸い身体的な拒絶反応は出ない。
 慣らされていなかったらあっさり死んでいたところだ。
 彼女はあやういのだ。
 振る舞いも、あやまちも、存在そのものも。
 もっともツカサにそれを責める権利はないが。

 細い首に腕を回す。
 彼女に吐きたいことがあるならここでぜんぶ受け入れようと思った。
 家族のことも町のことも神様のことも自らのことも。
 その代わりこちらの言葉もぜんぶ聞いてもらう。
 そうやってしばらく触れていて、彼女が息を切らして離れる。
 変わらない天蓋が視界に霞む。
 手足が異様に重い。
 急な情報処理に追われた脳が悲鳴をあげているのがわかる。

「はあ……松理、前は手加減してたんだな……コレ……」
「大丈夫?」
「ちょっと、立てない」
「じゃあ、寝てて」
「そうするけどさ」

 彼女がツカサを見下ろして微笑んだ。

「だめなんだよ。消えたものは、戻らないのにね。あたらしく生まれちゃうことがあるんだよね」
「でも松理、前とは違うんだよな」
「前の方がよかった?」
「そりゃ、君が俺を忘れるなんて思わなかったし」
「ふふ、前のわたし殺したいなあ」
「やば。前の松理はそんなこと言わない」

 大きく息をつく。
 たったいま流し込まれたものを言葉にするなら何が適切なのだろう。
 痛いような熱いような。狂おしくて強い。慈愛と殺意に近くてどちらとも違う。
 不安定で、身を打つような幸福感だった。
 ツカサが彼女に抱くそれと似ていた。
 見知らぬ過去の義弟に、なぜそうなったのかはわからない。
 やはり目か。
 年は取ったが、ツカサの目はまだ綺麗なままだろうか。

「その、前のわたしならね、」
「……うん」
「きみを見たら泣いて謝ると思うな。出逢ってごめん、仲良くなってごめん、置いていってごめん、縛ってごめん、また逢えるようにしちゃってごめん……って。謝ることばっかだね」
「なにそれ、最低だ」
「ね。今のわたしでよかったでしょう」
「結局それか。俺は君が松理ならなんでもいいんだけど」
「薄情もの」

 言葉のわりに楽しげに、素足がツカサの周囲をまわる。
 草を踏む音までどうも涼やかで、ツカサは心地よさに目を閉じた。
 神域には穢れたものがないのだ。
 音も光も、彼女の思う最善のかたちをしている。
 それはつまりツカサにとっての善でもある。
 いつまでも此処に居たいような気がした。
 彼女の足音が、すぐ隣ではたと止まる。
 薄目を開けると、膝を抱えた彼女が、笑顔を納めてこちらを見ていた。

「かみさまと話がしたかったんだ」

 懺悔のように聞こえた。
 神さまから懺悔を受けるなんて変な話だった。

「うん、聞いた」
「十四年前、つきくんに出逢うよりも前からそれが目的だったの」
「まじか……」
「でもわたし、やっぱり、きみがいると動けなかったから、離れたかったから」
「俺、邪魔だった?」
「邪魔だよ? いまも」

 即答で返され、ツカサは口を閉ざす。
 そうか、それは、嬉しいな。
 ツカサは彼女を現実に繋ぎ止める鎖だったのだ。
 そう在りたかった。
 ずっと。いまも。

「逢いたかった。だから、忘れないでって言ったの。わたしが忘れても、つながりが消えないように。つきくんならここには辿り着けると思ってたし。でも、ねえ。ほんとうにその時が来たら、どうするつもりだったのかな――なんでかなあ。そんなことしなければ、いろいろとよかったのにね」
「……じゃあ、帰ってくるの? 松理」
「帰っても、いい? わたし、神さまを辞めてもいいのかな?」

 涙混じりの声に、光がゆれている。
 その遠くに群生する白の花に気がついて、ツカサは重い身体を起こした。
 あれには。
 あの花にだけは善を感じなかった。
 冷たい静寂が、花の周囲に張りつめている。
 禍禍しい、と感じて逃げるように視線を彼女に戻した。
 目があったのは一瞬。彼女もまた何かから逃げるように目を背けて立ち上がる。
 そうして息を吸った。

「ごめんね」

 花を囲う静寂が拡がった気配があった。
 風も木々も息を潜めた。
 ひとつ響いた彼女の声はどこにも向いていなくて、確かに誰かへ宛てていた。

「今度こそきみを救えるって、思ってたけど。わたし、降りるね。……ごめんなさい。次に、託すね」

 彼女は粛々と歩み、白の花を一輪、手折る。
 ツカサはなにも言えずに見ていた。
 茎のちぎれた花が、みるみる萎れて、砂のように溶け落ちる。
 一輪、また一輪。
 静かな殺生が続く。
 純白がひろがっていた一帯が、跡形もなく消えてゆく。
 いくつも殺して、ついに最後。
 彼女は、萎れはじめる花弁の一枚にそっと口付けた。

「またね」

 静寂が終わった。
 森が不完全な命のおとを取り戻す。
 花の亡骸が消えた、その手のひらを、彼女はツカサに差し出した。
 それこそ、かみさまにするように、膝をついて、俯いて。

「ね、つきくん、心中しよう?」


2019年4月22日

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