Fictional forest
「彼らのこと@」
ソノは基地のなかを手持無沙汰に過ごしていた。
9月26日。
いつもの時間に基地へ来たはいいが、昼を過ぎてもソノひとり。
ツカサからメールは返ってこないし、シヅキの行方もわからない。
調べる対象を見失った情報屋にできることはない。
状況が状況なだけに、焦りがある。
ソノはきっとここ周辺の誰よりもものを知らない。
だから、いざという時になって、置いていかれるのだ。
こんなふうに。
暇潰しがてら、戸棚にわんさかあるシヅキの絵を綴じたファイルを眺める。
海辺。
美術の良し悪しはソノにはわからないが、いつ見ても精緻な絵だった。
見飽きて、ぼうっとして、また頁を捲ってを繰り返す。
そうしているうちに、少し眠った。
ソノをまどろみから引き戻したのは、積もった枯葉を踏む足音だった。
それこそ、飛び起きた。
足音はこの基地に向かっていたからだ。
しかし、違う。
リズムも、重さも、いつも聞く足音のどれとも一致していない。
誰――。
ソノは重い頭を振って眠気を払い、出入り口を睨んだ。
心臓がばくばく言っている。
足音は案の定、ビニールシートの前で止まる。
「やあ、誰かいる?」
落ち着いた声――やはり聞き覚えがない。
心当たりもない。
ソノは呼吸を整えてシートをめくる。
中年期の男性が、カジュアルなシャツ姿で立っていた。
「君は――赤羽ちゃん。こんにちは。あれ、ほかは誰もいないのか。月咲は?」
「……ツカサのおとうさん?」
「あ、会うのははじめてか、申し遅れたな。おれは湊夜空。ヨゾラじゃなくてヤクだ。まあ知ってるか」
深い藍色の目を細めて軽快に笑う。
物腰は、なるほど親子だ、ツカサに似たものを感じる。
「どうしてここに……辿り着けないはずじゃ」
「おれも確率はいじれるからな。なんか色々やばそうだからさ、様子見……は、」
ヤクは、言いながらきょろきょろと基地内を見回した。
テーブルライトに照らされるテントに、かたどられる影はひとりぶんだ。
「うん、無理だな。じゃあ、赤羽ちゃん、ちょっといいか、伊田くんのことで話があってな」
言いながらヤクが靴を脱いでテントにあがる。
ソノは他人の侵入に嫌な顔をする以前に、彼の言動に対して眉を潜めた。
「しーちゃん? しーちゃんの行方、ご存知なんですか」
「中央病院のベッドにいる。ほとんど失明だそうだ」
「病院……失明?」
「おれがばらしたの、月咲には黙っててくれよな。あいつ怒ると怖いんだ」
「はあ。いや、え?」
経緯への疑念をそっちのけて、ソノは机に広げたままのファイルを見た。
海辺の静かな暮らしを淡々と描いた、精緻な絵の数々。
彼はいま失明と言った。
シヅキが失明して病院にいると。
確かなら――絵は、もう。
「それ、伊田くんが描いたのか?」
ソノの視線を汲んだヤクがゆったりと問う。
ソノはひとまず彼の対面に座り直して、うなづいた。
「しーちゃん、ここにいる間じゅう絵を描いてたから……」
「そうか。いい絵だな」
「あの、失明って」
「おれも経緯は知らないんだ。急に病院の付き添いを頼まれてね。高橋くんから」
ますますわけがわからない。
急に姿を消したと思ったら、よくわからないが失明して、セイがヤクに連絡をした。
謎だらけだ。シヅキの失明の原因も、セイとヤクの繋がりも。
ソノはもやもやとした心地で、開かれていたファイルを閉じる。
「赤羽ちゃん、君、伊田くんと暮らしていたよな。彼の、着替えとか、私物がなにかあれば、持っていこうかと思うんだが」
「えっと、うちに行けばありますけど……」
「じゃあ行こう、車だすよ」
「いや、自転車で来てて」
「載せてってくれ、後部座席空いてるから」
「……じゃあ、お言葉に甘えて……」
近くの駐車場まで自転車を引いて行って、案内された乗用車に担ぎいれる。
緊張のとけないまま助手席に座ったソノをよそに、車はなめらかに走り出した。
車内に目立つものは見受けられず、かすかに消臭剤のにおいがする。
数センチだけ開いた窓から、乾いた冷気がしきりに出入りする。
音量の控えめなラジオ番組が軽快に音楽を鳴らせていた。
「赤羽ちゃん、いつも月咲が世話になってるね、ありがとう」
「あ……こちらこそ。色々、助けていただいて、ありがとうございました」
ソノは大人と接することにまったく慣れていない。少なくとも赤羽としては。
曖昧なリズムで言葉を吐く彼女に、ヤクが笑みを返した。
「おれは職業病でついやっちゃっただけさ。ほんとうに君を助けたのは月咲だよ」
職業病の言葉の用法が違う気がする。
ソノは困ったように笑い返した。
車は迷わずソノの住むアパートの方向へ舵を切る。
調査済みといったところか。
案内は必要ないようだ。
藍色の目はどこか底知れないものを見ているが、ハンドルを切る手は軽い。
ふと思った。そういうところが。
「……親子ですね」
一瞬だけ、視線が助手席のソノに向いた。
「そうか?」
「そうですよ」
「月咲、どんな奴なんだ?」
変わらない声色でヤクが問う。
そうだろうな、とソノはただ冷淡に考えた。
四年もろくに会っていない息子のことなど、わからないのだろう。
ローティーンは過ぎた。本来は最も親との悶着があるべき時期だった。
まあ、それを言えばソノもそうだが。
「よくわかりませんよ、私も」
「へえ、そんなもんか」
「前はいっつも子供みたいに笑って楽しそうにしてましたけど。最近は暗いし、重いし、ほっとくと死にそうだし、でも頼りになるし。なんなんだろあいつ」
「ははは」
信号待ちに止まった車内で、愉快そうに笑う声が響く。
「いや、でも死にそうはわかるぞ」
「わかっちゃ駄目でしょうそこは」
「こどもなんてみんなほっとくと死ぬからな、君もそうだ」
ぐん、とシートに背が沈んで、青緑色に変わった信号機が頭上を過ぎる。
もういくつか路地を曲がればソノの住むアパートだ。
たしかにな、と思う。
家賃だって父の金だ。
ひとりで生きられないのは、ソノには、少しだけ苦しい。
「君が月咲を放っておかなかったから、月咲はいまも生きているんだよ」
住宅街に入ったところで、ヤクがぽつりと言った。
「だからさ、君を責める気はないんだ。そう肩筋はらないでくれるかな」
「え」
ソノは顔をあげて彼の困ったような笑みを見た。
相手に余裕があることが、怖いと感じる。
動揺していた。
私は、責められると思っていたのか?
思っていたに違いなかった。
考えるまでもない。
生きているからよかったが、彼を殺しかねない環境を整えたのはソノだからだ。
その矢先に親にたずねられて、萎縮せずにいられるはずがない。
――見透かされている。
「あの」
言うべき言葉を探した。
落ち着かない。
落ち着くには、じぶんが優位でいなければならない。
対話は戦いだ。
幼少からそういう思考が染み付いているのだ。
ソノがいま彼に突きつけられる切り札はないのか?
考えたのはそれだけだった。
「ツカサの、お母さんって……奥さんは、どうしているんですか」
会話の流れは不自然ではないはずだ。
だって、一般的に、湊月咲ともっとも関わるべきだったのは誰だ。
ツカサを放っておいてはいけなかったのは。
こどもの命を守るひとは。
間違ってもこんな一介の情報屋ではなかったろう。
目前の彼、あるいは、もうひとりいなかったか。
いたはずだ。資料では、消息不明の四文字だけが記されていた――
ヤクは特に表情を変えることもなく、アパート脇の路地でブレーキを踏んだ。
ゆるやかに車体の揺れが収まり、一時の静寂が耳を裂く。
ソノは勝った気でいた。
この問いは無視されても誤魔化されても答えられても情報になる。
一気に優位に立った実感があった。
「それは君が知っているはずだよ」
答えて、彼はこともなげに降車し、後部座席からソノの自転車を担ぎ出す。
「これ、そこの駐輪場でいいのか?」
「え、あ、はい」
とっさに頷いて、ソノも車を降りる。
嫌な汗が戻ってくる。
風が冷やかに全身の温度を奪っていく。
おおきな暗雲がひとつ、薄い青天に浮かんでいる。
疑問符で思考がまとまらない。
おかしい。何がおかしいのかわからない。
駐輪場まで自転車を引いていって、慣れた動作で鍵をかける。
がちゃん、という音が耳にぐるぐると木霊して気分が悪い。
車の端から、ヤクが笑顔を向けてくる。
「おれは出口で待ってるよ、おじさんは女の子の部屋には入れないからな。悪いけど荷物まとめてきてくれるか?」
「……はい」
逃げるように部屋へ向かい、玄関扉の内側にうずくまった。
知っている。
知っているはずだ。
なぜだろう。
気づいていないことにしていた。
何かのせいにし続けていた。
無意識的にか? わからない。
目を逸らし続けていられたら、それがいちばんよかった。
それだけが確かだ。
ソノは、手汗で取り落としそうになりながら、携帯を取り出し開いた。
いつのまにかメールの返信が来ている。
ウミとの外出についての疑念を綴ったメールを、朝方に送った記憶がある。
それももうずいぶん前のように感じた。
時間の感覚が狂っている。
【ちょっと話してた。詳しくはあとで話せると思う
待ってて
行ってくるよ】
どこに、なんて聞くまでもない。
「……あ、」
行ってはいけない。
焦りに詰まる喉で、震える指では言葉が出せなかった。
手のひらから滑り落ちた携帯がかたんと音を立てる。
他に誰か気づいていないのか?
それこそ、ウミは?
いや、もう彼にはわからないのだったか。
だめだ。
限られた人脈のさなか、おそらく気づいたのはソノだけだろう。
置いていかれたなんてとんでもない。
ソノは、すこし、進みすぎてしまった。
けれども、気づいたとしても、止める術がないのはわかっている。
方法がない。
じゃあ、どうする。
受け入れるだけだ。
深く息を吸って吐いた。
早くシヅキの荷物をまとめてしまおう。
ソノのいまできることはそれだけなのだ。
携帯を拾って仕舞い直し、作業にとりかかった。
2019年4月21日
▼
[戻る]