[携帯モード] [URL送信]

Fictional forest
「トラッシールーツ」

 くらくらする。
 自分が立っているのか、倒れているのかが、わからない。
 痛みが極限まで来るとこうなるのか。
 あるいは、痛みを抑える薬の作用のせいか。
 そんなことを考えていられるのも束の間、吐き気にえづいた。
 トイレの壁に背を預けてこらえる。
 いつまで続くのだろう。
 視界は目まぐるしく弾け跳んでは現れる数式で埋め尽くされている。
 戦場だ。戦っているのだ。
 自らに施された絶対の暗示と。

 いつ朝になったのかわからない。
 ツカサが時間を認識したのはソノからの着信があってからだった。
 ふだん基地に集まる時間を、大幅に過ぎていた。
 そこで、はっと、数式が目的の値に達していることに気づいた。
 深く息をついて、その場に座り込む。
 空っぽになった胃をしびれの取れない手足で抱え、通話に出る。

『よかった出た! ツカサ、薬は? 使った? 生きてる?』
「ん……使った。生きてる。あとでレポート送るよ」
『安心したあ、思ったより元気そうだね、あ、いま大丈夫?』

 昨日のことを思う。
 遅れて基地に乗り込んだツカサに、ソノはぽんと書類の束を渡してきたのだ。
 薬に関する資料。
 目を通してみると、たいてい想像通りのリスクがみっちりと記されていた。
 ちらと盗み見たウミが怪訝そうにして、しかし黙っていたのを覚えている。
 出る幕ではないと思ったのだろう。
 ウミがそうやって何かにつけて引き下がるのも、すこしだけ久々だった。
 いつものこと。良いことでもないが、それだけには安心感を覚えた。
 あの妙な緊張感は、いまも電話の向こうのひみつきちに貼り付いている。

「大丈夫」
『あのさ、なんか、みんな来ないんだけど、連絡受けてる?』
「え、いや。でも別に……いいんじゃね、来るほうがおかしいだろ、そろそろ」
『そうなのかな。しーちゃんもまた帰ってないし』
「心配なら連絡とろうか、ウミに」
『んー。そうだねえ、頼もっかな』

 一度、通話を切って、言われた通りにウミを呼び出す。
 しらじらと光る画面に、寝不足の頭が痛んだ。
 もう気にならない。
 やけに心が凪いでいる。
 佳境を越えたからだろう。
 ただ冷静に考える。
 ソノは、誰も来ない、と言った。
 入院中のシヅキが来ないのは当然なので、実質、不明瞭なのはウミだけだ。
 ウミの基地への執着は大きいだろうから、たしかに不自然ではある。
 まあそれもこの電話一本でわかる話だ。
 数回のコールで、画面が通話中に切り替わる。

『はい、もしもし……ちょうどよかった、団長』
「ちょうどよかった?」
『いま、代わります』

 通話が始まるなり、受話器がやりとりされているだろう物音が流れた。

『あ、こん……、いやおはようございます。高橋ですけど』
「……成? なんでウミと成が一緒に」
『すみません、福居には話があったんで、俺がちょっと呼び止めちゃってて。いま駅前公園の、遊具とかある方にいるんですけど』
「あ、そうなんだ」

 なんてことのない真相だと思った。
 つまり、ウミは基地に来ようとはしていたが、道中でセイに呼び止められ、公園の別区画にいるわけだ。
 ソノの心配は、当たらずとも遠からず。

『あのそれで湊さん、よかったら、ちょっと来てくれますか』



 待ち合わせは駅前だった。
 続く秋晴れのもと、乾いた風にさらされて、二人は待っていた。
 現れたツカサを目に、セイがベンチから立ち上がって笑顔を見せる。
 後に続いて、ウミが会釈をする。
 ツカサも片手をあげる。

「おはよ」
「団長……」早々にウミが顔をしかめる。
「なに?」
「いや、……いいです、おはようございます」

 ウミが黙って、引き継ぐようにセイが口を開く。

「そんじゃ、行きますか」
「どこに?」
「市外に」

 そうして、三人で電車に乗り込む。
 ひめきにも軽い朝ラッシュがあるが、それも終わった時間帯だ。
 ほとんどがらんどうの車両に、少年が三人、固まって座る。
 がたんごとん、揺られながら、ツカサはソノへの言い訳を考えて画面を睨んだ。
 下手なことを言って怪しまれても調べ尽くされるだけだ。
 結局ありのまま、ちょっとウミと出かけてくる、とだけ伝えた。
 疑念を綴ったメールが返ってくる前に、携帯端末を鞄に押し込む。
 車両はその間にもどんどんと進んでいった。
 道中、聞けば、降車駅はどこでもいいらしい。
 市外にさえ出られれば。
 大事をとって、一時間ほどひめきを遠ざかってから、見知らぬ町に降りた。
 変わらず、乾いた風が三人を出迎える。
 そこそこに発展した駅前を歩き、適当な飲食店を見繕ってボックス席を陣取る。

「それで?」

 セルフサービスの水を器用に三人ぶん運びながら、ツカサは問うた。
 これまで、さんざん、話はしたはずだ。
 互いの持ちうる情報は、もうたいてい交換し終えている。
 この上まだなにか話が、それも市内ではタブーな類いの話があるのか。
 水を受け取ったウミが、礼をつぶやきながらうなづいた。

「悪夢障害の話、です」

 注文を済ませ、待つ間、ウミがぽつぽつと説く。
 ひめきに蔓延る悪夢障害と呼ばれるもの。
 ウミはそれを記述の観覧とあらわした。
 世界というものの、記述を、夢をとおして観覧しているのだと。
 いや、厳密には、無理矢理観覧させられているわけだから、
 記述を頭に流し込まれると表現したほうが近いかもしれないと。
 ツカサはすぐにぴんときた。
 なぜわざわざツカサが呼ばれたかということについても。
 グラスに目を落とす。
 おぼろげにみどりが映っている。

「いま、それがひめき全域で起こってます」

 そこで三人ぶんのドリンクが運ばれてきた。
 とりあえず、各々、飲み物に口をつける。

「その原因なんですけど」とセイが話を引き継いだ。
「あいつが……?」

 ツカサは言われる前に言って、天井を仰いだ。
 黄色のペンダントライトに目が眩む。
 いま、聞いている話に、驚くべきなのか、やっぱりと言うべきなのか、微妙だ。
 ツカサは知っている。
 彼女が神さまとさえ呼ばれる災厄であることは、とっくに。
 セイはうなづいて、続ける。

「止めるか止めないかはここじゃ別問題として。いま悪夢を起こしてるのはあのひとです。それで俺、知りたくなって。あのひとが、そこまでして追ってるもののこと。だから福居を頼ったんです。そしたら福居が、市内じゃ話せないとか、そういう話は湊さんも呼べって言うから」

 ストローでちまちまとアイスコーヒーを啜っていたウミが、ふと顔を上げた。
 わからないのは彼のことだ。
 彼女が引き起こした悪夢障害の拡散、
 その原点を、彼が知っているというのか。
 この手の話には常に一歩退いてきた彼が。

「……まず、俺は」

 困ったように、ウミが話し出す。

「あなた方の追ってる人のことは、知りませんし、聞く気もないです。俺が話せるのは……なんだろうな、たぶん、この災害の……ひめき市政の本旨、だと思うんですけど」
「市政の本旨?」
「団長、『傍観者』って聞いたことはありますか」

 ない、と首を振る。
 緊張で乾いてきた口内を、甘ったるいジュースで潤す。
 ウミは蒼の目を伏せる。

「俺がそう呼んでるだけなんで、もしかしたら知ってるかもしれないんですけど……市政は、そいつを探しているんです。俺たちの目を使って」
「目を使う……って」
「ひめきで悪夢障害を発症したこどもは、夢で何を見たかって、市政からかなりしつこく聞かれるんですよ」
「ああうん、それは知ってる」
「それ、俺たちが悪夢で見る可能性のある『誰か』の情報を集めるためです……その誰かっていうのが、『傍観者』とか、『かみさま』とか呼ばれてる。俺は、よく話すから……神とかぜんぜん思えないんで、前者で呼びますけど」
「あのひとは、神って呼びますね、そいつのこと」

 セイが補足する。
 ツカサは黙って聞いて、ふむ、と考えた。
 神という言葉は万能だ。
 未詳で恐ろしくて強いものには、簡単にその名がついてしまう。
 彼女を見ていればわかることだ。
 しかし、傍観者、という言葉には真逆のイメージがある。
 なにもしない、あるいはできない、ただの人。

「え、あいつはそれを追ってるって言うのか」
「ええ」セイがうなづく。「言ってました。そのためだって」
「なんだそりゃ」

 聞いたことのない話だった。
 父の立場上、市政の動向には詳しいし、彼女からも色々なことを聞いた。
 これまで、どんな局面でもツカサの情報力が足らなかったことはなかった。
 それがいま、覆されている。
 もしこの話が本当なら。
 ツカサは、すべての根本を、ずっと知らなかったということだ。
 少し、腹が立って、ジュースを半分ほど一気にあおる。

「言えよ……」

 思わずぼやいた。彼女に対して。
 理由や目的があるなら、勝手に消える前に言ってくれ。
 言われたところで理解も納得もしなかっただろうが。
 むろんいまもしていない。

「つまりその、傍観者のことを探るために、悪夢障害が引き起こされて、ひめきが動いてて、あいつも同じことをやってる、そのせいでいま町がヤバイ?」
「そです、だいたいあってます」
「なんで、俺らだけ無事なんだよ」

 彼女の計らいだろうか。
 なんにせよ作為的だ。
 それが、無性に腹立たしい。
 どうせ黙って消えて勝手にやるならいちいち構わないでほしい。
 忘れたくせに。

「あまり言いたくはないですけど、かみさまとの対話、悪夢とかいうのがもしそれなんだったら、かなり危ないらしいんですよ」セイが答える。
「危ない?」
「ひとが壊れる、って。あのひとが」

 壊れる。
 不穏な言葉だ。
 ウミの方を見る。
 彼はストローを無為に回しながら、目をそむけた。

「でしょうね……だから悪夢なんだ。壊れてるのは向こうですけど。エラーって、うつりますからね」
「……」
「俺はまだ平気です。もう、話すこともないだろうし」
「……そいつって、なんなの」
「傍観者ですよ。それ以上でも、以下でもない……俺はあいつを調べる意味はないと思ってます」

 意味はないですよ、とウミが繰り返した。
 ツカサとセイが顔を見合わせる。
 無意味なもののためだというなら、彼女の行動はあまりに度が過ぎている。
 その被害者とも言えるツカサ達が、ウミの言葉を聞き入れることはできない。

「だから。……早く終わらせてください」

 ウミが続けた。
 飲み物が空になっていた。
 ツカサはふと今朝がたから止まない頭痛を思い出す。
 この不調のわけに思い至る。
 そうだ、もう、終わらせてもいい時なのだ。
 意味なんて、終わったあとから考えればいい。

「うん」

 ツカサは迷いなく答えて、席を立ち、息を吸った。

「なあ成、……俺の勝ちだよ」


 最後の一週間――七日目。



2019年4月12日

▲ 
[戻る]