[携帯モード] [URL送信]

Fictional forest
「ターンエンド」

 父がシヅキの病室を個室に手配したのは配慮のつもりなのだろうか。
 悔しいが、ありがたい。
 そう思いながらツカサは扉をノックして、二秒待って開いた。
 父から連絡が入ったときには面会時間を過ぎていたから、翌日の朝だ。
 基地のみなにはまだ知らせていない。
 知らせていいかどうかは、いまから判断するのだ。

 病室はオフホワイトの柔らかい光に包まれていた。
 大きな南向きの窓がひとつあって、眺めは悪くない。
 差し込む日光が、四角く切り取られてベッドに落ちている。
 そのかげに、シヅキは身を起こしていた。
 両の目は包帯にふさがれて、ただ正面を向いている。
 サイドテーブルで、手付かずの病院食が冷たくなっている。

「おはよう紫月。俺、月咲だけど。ちゃんと眠れた?」
「……おはようございます、眠れては、いませんが」

 ちいさな声が帰ってくる。
 見えないということは筆談も難しくなるのだ。
 コミュニケーションがとれるか不安だったが、大丈夫そうだ。
 ツカサはまずひとつ安堵する。

「飲み物だけ買ってきた。お茶とジュースどっちがいい?」
「ありがとうございます。お茶で、お願いします」

 シヅキの手を取って、ボトルを握らせる。
 ちいさく頭を垂れた彼は、違和感のない動きで蓋を開ける。
 一口だけ飲んで、ボトルを机に置いた。
 迷いがない。見えないことを、どうとも思っていない。そんな感じだ。

「あ、団長。……ご飯、戻しておいていただけませんか。廊下に専用のワゴンがあるので」
「いらないのか」
「はい、看護師が、食事、介助してくださるって、でも、お断りして。食べたくなったらコールするよう、言われたのですが……」
「わかった、待ってて」

 ツカサは言われた通りにトレーを持って行って、戻る。
 数人の看護師がせわしく歩いているのを尻目に思う。
 あのシヅキが、こうもよく喋るとは。
 意外だが、案外こちらが素なのかもしれない。
 なにがあったのかはまだわからない。
 彼の振る舞いが大きく変わるようなことだったのだろうが。
 急に、両目に怪我をして入院した、などと言われても。

「戻った。椅子借りるね」
「ありがとうございました、どうぞ」

 端の丸椅子に腰掛け、ツカサはツカサでジュースを開ける。
 甘い液体を喉に流し込む。
 少しの沈黙。
 院内は、個室にいても、いろんな音が聞こえてくる。
 廊下を行く看護師の足音、こどもの泣き声、医療機器の鳴らす電子音。
 窓を揺らす風の音だけに馴染みがあった。

「あの、団長」
「ん」
「他の方は?」
「まだ連絡してないんだ。俺が遅れることだけ言ってあるけど。来ても平気?」
「……いえ、まだ。いちどに疑われたり、見透かされるのは、すこし疲れますから」
「そっか」
「団長は、何を聞かれますか」

 気の重そうな問いだ。
 ツカサはジュースのキャップを閉めながら答える。

「別に、何も。様子だけ見に来た」
「……」
「無理強いは趣味じゃないし。言いたいなら聞くけど。……俺の方もそろそろ終わりそうでさ、だからまあ、いいかなと」
「終わりそう?」
「薬が届いたんだ。これで、うまくいけば、森に行ける」

 臆面もなく口にした。
 ただし、扉一枚の向う側には聞こえないように、抑えた声で。
 目がふさがれていてもわかるほど、シヅキが表情を変える。
 うつむいた顔に影が落ちる。

「どうしても……行かなくてはなりませんか」

 ツカサは考えていた。
 なぜ彼はそこまでしてツカサを森から遠ざけたがるのだろう。
 そもそもなぜツカサに接触して、守るような真似をしたのか。

「湊さん、わたしは」声がふるえている。
「いいよもう謝らなくて。紫月がなにしたのかは知らないけど、俺が責めたいのはあいつだけだ」
「……だったらなおさら」

 そこまで言って、彼が咳き込む。
 喋り慣れてはいないのだ。
 お茶をまた一口だけあおいだ。
 ツカサもつられてジュースに口をつける。
 甘さに満足して蓋を閉める。
 甘いものは好きだった。
 好きなものも嫌いなものも、あの日から変えないようにしていた。
 シヅキがとん、とまたボトルを置く。
 その手が目を押さえる。痛むのかもしれない。
 彼は苦しげに息を吸って、言葉に変えて吐いた。

「いま、あのひとの、あなたといた頃の記憶を持っているのは、わたしだけです」
「……え」
「わたしが、あのひとの記憶を、過去を、消しました。わたしだけは、見せていただいたので、まだ覚えていますが。あのひとには、もう、戻ることはありません」

 ちいさく、かすれた声で告げる。
 ツカサは彼の吐いた言葉を、まず数回脳裏に反芻した。
 それからやっと、疑念や、驚きや、拒絶が浮かぶ。
 どう受け止めるべきか、考える。

「そう、なのか」

 出た言葉は味気なかった。
 まだ理解していないから出た言葉だったかもしれない。
 言ってから、やっと実感が追い付いてきた。
 ようするに彼女は――
 いまの彼女はツカサのことを――
 覚えていないのか。
 いや、憶えていないのだ。
 事実を識っていたとしても、自身の記憶でない以上、心が伴わないわけだ。
 ツカサと彼女がふたりでひとつだった頃の、あのつながりは。
 心を重ねた毎夜の夢見の神聖さは。
 もうツカサのなかにしか存在しないということか。

「ですから、ごめんなさい」

 シヅキがそう続けた。
 両手がシーツを強く握っていた。

「わたしが、あのひとの過去を消して。それがあなたに伝わるのが、嫌で、ずっと止めていました。わたしは責められなくても、あなたを苦しめると思ったから」
「……うん、そうか」
「じぶんでも、わかりません。ずっと森にいれば、苦しいだけで済んだのに、どうして、あなたに会いに行ってしまったのか、いまだにわからなくて、でも、わたしは……」

 シヅキにはじめて会ったときのことを思い出していた。
 たすけてください、と、そう言われたのだ。
 ちいさな身体で、うずくまって、なにかただならぬものの下で震えていた。
 彼はさいしょから悲壮を背負って、ツカサの前に現れた。
 その悲壮が彼自身のものか、彼にあるという彼女の記憶の産物か。
 どちらにせよ、ツカサはそうとう想われているらしい。
 言うべき言葉を探した。

「いままでありがとうな、守ってくれて」
「意味はありませんでした、わたしの満足しか」
「そんなことない」
「ごめんなさい、ほんとうに」
「俺は許すよ、あとは君だ」

 彼女に逢わなくてはならない、と強く意識した。
 つながりが薄れたことなど、はなから百も承知だ。
 シヅキがなにをしようと変わらない。
 過去になってしまったから。
 もう、その時点で、ないのと同じだ。
 そうだろ?
 ここにないつながりなんて。
 だから、逢いに行く。
 また彼女とつながりたいのか、
 それとももうこのしがらみのすべてを終わりにしたいのかは、
 そのときの気分だ。

 ツカサは席を立った。

「薬、受け取らなきゃだから。そろそろ行くよ。二度と会えなかったらごめんな。そしたら園がなんとかしてくれるから。あと、父さんにも頼っていいからな。なんとか生きてけよ」
「……はい。……ありがとうございました」

 病室をあとにする。
 そこでふいに、ああ、彼は自殺を図ったんだ、と理解した。
 足を進め、受付にひと声かける。
 外来の待合室に、こどもが多くいるのを見掛けた。
 みなが蒼白く、沈痛な顔をして黙っている。
 気味の悪い光景だった。
 悪夢障害の流行、なんて、医学的のいの字もないことだ。
 こんなところに駆け込んだって無意味だろうが。
 ツカサには関係のない話。
 目をそむけて、自動ドアをくぐった。
 雲が遠く高く流れている。
 終われないなと思う。
 少なくとも彼女にこの空を見せるまでは。

 今夜が正念場だ。
 薬の効果を試し、少しずつ量を増やして、致死量ぎりぎりを探る必要がある。
 医学的知識などかじるほどしかないツカサには、とんだ芸当だ。
 効果を試すにはむろん能力の使用が必須になるから、激痛も伴うだろう。
 けれど、できなければ進めない。
 死んではいけない、と、効果はないが、口に出した。

 六日目。
 壊れ出した町を、悠々と雲が過ぎていった。


2019年4月7日

▲  ▼
[戻る]