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Fictional forest
「フラワーガーデンA」

「――成くん!」

 刹那、黙ってうつむいていた彼女が口を開く。
 あまり大きな声でもないのに、セイは肩を跳ねさせて驚いた。
 同時に、全身の硬直が解ける。

「しづくん連れてって。いますぐ。ここを出たら、近くの電話で救急車を呼んで、それからヤクにも電話して」
「やく……?」
「わたしのお義父さん。番号は――」

 セイは、言われたままふらつくシヅキを立たせ、支える。
 やっと手の離れた両目は閉じられて、細く、絶え間なく出血している。
 ひとまずハンカチを取り出して、やさしく当てた。

「これで血、とめてて、紫月。ごめんな、いま助けるから」
「なん、で」
「わかんない、あいつが言ったから。……行こう」

 ふたり歩いて、町に出る頃には、畳まれたままのハンカチに黒く染みができた。
 シヅキを花壇の縁に座らせ、傍らの公衆電話に駆け込み、緊急通報して、
 それからセイは小銭を放り込み彼女に言われた番号を押す。
 すこし待って、落ち着いた声音の男性が出る。

『はい、ホームうつぎの湊です、どちらさまで』
「湊、さん。俺。高橋といいます、あの、説明してる暇があまりなくて」
『……高橋成くんか。今どこにいる?』
「えっ、と――」

 この際、名前を知られていたことには突っ込まず、
 場所と、怪我人がいること、救急車を呼んだことだけ、早口に話した。

『わかった、俺は先に病院に向かおう。事情はそこで聞く』

 戻ると、シヅキはおとなしく止血をして座っていた。
 喋りすぎた反動か、声をかけてもじっと黙っていた。
 数分して救急車がやってきて、市内の病院へ搬送される。
 赤色灯がくるくる回って、市内唯一の総合病院へ走る。
 ぐらぐら揺れる慣れない白い車を降りたところで、男性が声をかけてきた。
 湊夜空。
 藍色のひとみに、癖毛を短く整えた柔和な印象の男性だ。
 セイはただ頭を下げて、三人で院内へ押し入った。
 すぐさま奥の区画へ押しやられたシヅキを見送り、ふたり待合室に座る。
 緊急外来の待合室に人はまばらで、かかっているクラシックがよく聴こえる。

「いまの彼……? は、伊田紫月くんか。なるほどな、保険もなしの身元不明で受診はちょっときついもんなあ」

 ヤクがやんわりと話し出した。
 人好きのしそうなやわらかな笑みで、少しだるそうに喋る。
 なるほど親子だ、と感じた。
 目の色は違うけれど。

「あの、俺たちの名前……」
「ああ。月咲づてでね。きみたちのことはちょっとだけ聞いてるんだ」

 つかさ、って言うんだっけ、あのひと。
 あまり耳慣れない音に、セイは目を瞬かせる。

「そうなんですか」
「というかそうだ、月咲はいない……いや。絡んでない、のかな。じゃあどうやっておれに連絡を?」

 ヤクが首を捻る。
 言いそうになって躊躇した。
 先日、ツカサに聞いた話が脳裏にちらつく。
 家族ぐるみで、彼女の存在を隠していたこと。
 それはツカサの様子を見る限りいまも健在の体制だろう。
 いくら人がまばらとはいえ、こんなところで彼女のことを口に出すのはどうか。
 そうして黙ってしまったセイに、困ったような笑みが降る。

「はは、まぁいいよ、月咲にはあとで聞く。いや、もしかして聞いちゃダメか?」
「いえ、紫月のことは、伝えていただけると有り難いです」
「わかった。……治るといいな。ひどい出血だった」
「はい……」

 それから、かれこれ数時間と待たされ、ソファの座り心地も悪くなって、
 ようやく戻ってきた彼は、両目に包帯を巻いて看護師に手を引かれていた。
 ひとまず、できていた創傷を縫い付けたのだという。
 視力の回復が見込めるかは、さほど期待できないそうだ。
 しばらく入院するように、とも。
 ヤクがひとり、手続きのため窓口に向かっていった。 
 盲目になったシヅキが、セイのとなりにちょこんと残る。
 目をふさがれると表情がわからず、セイも黙ってしまう。
 聞きあきた穏やかなクラシックが流れている。

「成さん。ありがとうございました」

 ぽつり、シヅキが言った。
 すっかりふつうに喋っている。

「いや俺は」言われてやっただけだ、と言おうとして、口をつぐんだ。
「……でも。感謝はしますけど。……許せないです」

 まっくらな視界をもて余すように前だけに顔を向けて、シヅキが続けた。
 セイはどきりとした。
 あれ、と思う。いやな感じだ、と。
 いままでなら、まっすぐに怒りを告げられたとあれば、喜びが先に来たのだ。
 やっと誰にとっても無であるじぶんを脱せたのだから。
 けれど、いまはただ、言葉に刺されて苦しいだけだ。
 自覚があるからだろう。
 セイも、セイの行為に対してもやもやと罪悪を感じていたから。
 それならばいままでは違ったのか。罪悪感がなかったのか。
 端的に言ってその通りだ。
 ずっと自覚が薄かった。現実感が。だって誰もセイを認識しないから。
 でもそうか、いまはもう違うのだ。

「まあ、そうだよな」返せたのはそれだけだった。
「きおくさいがい、貴方は、おわかりですか」
「記憶……災害?」
「世界中の、記憶が、ぜんぶわたしたちの読める形になったら。……地獄だと、思いませんか。それがいま、この町に起きている。あのひとの、力のせいで」

 セイは珍しく理解に苦しまなかった。
 花に触れたことも、彼女の力に触れたこともあったからだ。
 あまねくことの情報が脳細胞に焼き付いて、焼き殺していくあの感覚。
 みずからのなかでせめぎ合い、境界を失ってしまった記憶の亡骸。
 あれが町中で、か。
 それは、なるほど、地獄に違いなかった。
 実感は涌く。じぶんがそうだから。
 笑い声のひびかない放課後の町を目にしているから。

「貴女方のしているのはそういうことです」
「……うん」
「やめないのですか」
「……」

 考える。
 セイもわざわざこのもやもやした息苦しさがほしいわけではない。
 この町の見知らぬ誰かのことはどうでもいいが、どうでもいいからこそ、とくに傷つけたくもない。
 セイのなかでいちばんの価値を持っているのは、彼女だ。
 なにもないじぶんを特別にしてくれるひとだからだ。
 彼女はどうなのだろう。
 災害とすら云われるこれが彼女の仕事なら。
 彼女がこの仕事に納得していないのなら。

「やめたいかもな、まあ。でも、やめたら、行く場所がない」

 フラットな答えだった。
 彼女にはあるだろう、森を去っても帰れる場所が。
 待っている誰かがいる。
 だから彼女は、極論、やめても平気だ。
 シヅキにだって基地がある。
 だがセイはそうではない。
 セイはなにも持たずにここへ来てしまった。
 基地にも家にも学校にもいまさら戻れない。
 彼女を追う為に首を吊った、その日がセイの命日だったのだ。
 命をかけた己の行為を、裏切れないから、彼女の隣にいる。
 だからセイは、彼女が森を去って離れていったら、終わってしまう。
 まあ、とは言え、セイにとっての唯一も、セイを唯一にはしないのだから、
 特別を得るためのこの戦いは、最初から、始まってもいなかった、
 そうも言えるかもしれないが。
 思えばぜんぶがうまくいかない。
 いままでの、直感的で、衝動的で、先走った行為のすべてが的はずれだった。
 もう少し知的に生きられたら違ったのか。そんな気もしない。
 セイは、いまを嘆きはしても、後悔だけはしていないから。
 少しむなしいだけだ。

「かみさまってなんだろうな」

 曖昧に言葉を吐いた。
 皮肉のつもりで、愚痴のつもりで、世間話のつもりで。
 かみさまってなんだろう。
 どうしてここまでしてその災厄と話をしなければならないのだろう。
 仰々しく名乗っておいて、悲劇を呼び込むほかに、なんの力があるのか。
 聞いている限り、その災厄は在るだけだ。
 なにもしやしない。人間が触れたら溶けるだけの。マグマのようなモノ。
 異常な方法でしか人間と話もできない、孤独の異形だ。
 神は、なにも赦してくれないし、なにも与えてくれない、鉄槌も下さない。
 在るだけ。
 ただ次元のずれた情報を抱えているせいで、こちらが理解しようとすると、頭がやられてしまう。
 つまりこちらがなにもしなければ、こちらにとってはいないのと同じだ。
 反応がないわけだから。
 案外そんなものなのだろうか。
 
「――湖さんに聞くといいですよ」ふとシヅキが答えた。
「え、福居に?」
「つきあい、長いでしょうから。あのひとよりも」

 聞き返そうとしたとき、ヤクが手続きを終えて戻ってきた。
 病棟へ向かい手を引かれるシヅキは、もういつも通り口を開かなかった。
 セイは、ここで退散することにする。
 あとのことは、基地にいるだろうシヅキの実質の保護者たちに任せよう。

 五日目。
 きょうも花々は夜風に揺れる。


2019年4月2日

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