Fictional forest
「フラワーガーデン@」
「かみさまは見つけた?」
ゆるりと問う声に光がちらつく。
小川の対岸で、眠るように伏せていた彼女が起き上がる。
みどり色と目が合う。
高橋成は対岸へ両足で跳んで、彼女の隣に来てみた。
「まだ、かな」
「まだかあ」
セイは彼女の目的や行動を詳しく把握してはいない。
けれど、概要だけはそろそろ掴んできた。
かみさまと云われる存在との、対話。
それには彼女の使う、心をつなげる魔法が不可欠だ。
けれど彼女の力だけでは足りないから、さまざまなひとを巻き込むらしい。
あれから、すこしだけ町が騒がしい。
夕暮れの公園で遊ぶこどもたちが暗い顔をしているのを見掛けた。
食料を買い足しに出ると、いつもは子連れのおばさんがひとりだった。
そういうちいさな変化にセイは敏感だ。
問えば、この町のこどもたちの力を借りている、と彼女は答えた。
彼女はすこしだけ疲れた顔をして、あまり立ち上がらなくなった。
力を借りる、という行為が、彼女の疲労の原因なのだ。
「なあ、俺は?」
「ん?」
「俺は、かみさまとかかわらなくてもいいのか」
「うん、きみはね、」
守られているから。
またそうやってセイには理解できない回答をして、彼女は草の上に目を閉じた。
どこかのだれかと力を介してつながろうとするとき、彼女はいつもそうする。
セイはただおとなしく待った。
自身が必要とされうる可能性を待っていた。
考える時間だけには、困らない。
ぼんやりと、ぐるぐると、座ったままで頭をまわした。
彼女の使命、みたいなもので、セイがいま協力しているらしいそれが、
母をああまで『壊した』というのなら、
彼女に利用されている町のこどもたちはどうなのだろう。
笑い声のひびかない公園。
その薄気味悪さを、彼女がつくっているのなら、
そしてセイだけがなぜだか壊れずに済むというなら、
セイは、つまり、じぶんだけは安全な場所から、みなにひきょうでひどいことをしているのではなかろうか。
あるいは、そう、セイだけが彼女に頼られていないのではないだろうか。
どちらにしても、けっして気分がよくはない。
いやだなあ――とだけ思って、感触の不完全な水に触れる。
触れてここにあるのは確かで、掬えそうで、しかし掬うことはできない。
幻覚と現実の境目にある。この森のすべてが。
それならいっそ彼女の存在ごとまぼろしなら、誰も苦しむことはないのに。
なんて、思うだけだが。
と、森の様相がかちりと切り替わった。
光が収まり、木々がざわめく。
「どうかした?」
「もう来ないと思ってたな」つぶやいて、彼女が目を開く。
耳慣れたちいさな足音が木陰から近づいた。
振り向くと、うつむいた黒髪が目に入った。
シヅキだ。
金色の目は足元を見るばかりだが、足取りはしっかりしていた。
彼はセイの目前に歩み寄ると、ごくちいさな声で言う。
「これ、」
差し出した両手に、赤い、髪飾りがあった。
シヅキが肌身離さずつけていたもの。
以前、セイが造ったものだ。
ゴムの通されたカプセルに、小さく丸めた紙が言霊を記されて入っている。
セイは、あっけにとられてまず彼女の方を見た。
彼女は薄く微笑んでそっぽを向く。
シヅキは、言葉が足りないと思ったのか、おもむろにメモを書き始めた。
『わたしはもう貴女方にはご協力できません。ですので、これはお返しします。いままでありがとうございました』
「待てよ、返すって何。大丈夫なのか」
「……」
力が暴走しやすい体質だ、と聞いている。
セイの造った髪飾りは彼に対する処方だ。
必要なのではないのか。
必要だから、これをずっと身につけて、かかわりたくない場へも来てくれた。
違うか。違うはずはない。
つまるところ、かかわりたくないということの方が、彼のなかで重たくなった。
そういうことか。
べつに、それはかまわない。
最初からここはふたりだけだった。
シヅキがいなくて致命的に困るようなことは、まあ、あるなら彼女が口を出すだろうし、ないのだろう。
だが受けとっていいのだろうか。
セイは躊躇して押し黙った。
なかなか受け取らないセイに、シヅキは手を下げて、みたび口を開く、
「悪夢。……貴女、ですか」言葉は彼女に向いていた。
「うん、よくわかったね」
「どうして」
その『どうして』は、無知から来るものではなかった。
セイが無知だからわかるのだ。
これは、理由などとうに知った上で責め立てているときの『どうして』だ。
怒りを含んでいる。
彼女がひめきのこどもたちに起こしたこの騒ぎのなかで、
シヅキには認められないなにかがあった、ということだろうか。
「しづくん、きみは少しやさしすぎるね」
彼女が言って、シヅキの両手を握った。
セイの言霊ごと閉じ込めるようにして、握った。
そこにどんなやりとりがあるか、もちろんセイには知れない。
ただシヅキが視線をあげないことだけが気にかかった。
「しづくん、きみのやさしさは度が過ぎるね。きみじゃない知らない誰かのことも。悲しいと思ったら背負ってしまう。線引きができないから、ぜんぶじぶんのことに思うから」
シヅキは、黙って彼女の手を振りほどいた。
「あのねしづくん、聞いても聞かなくてもいいお小言だけどね、狭いとこで生きるには役に立つでしょう、共感は。でもね。ここにはひとが多すぎるのね。きみときみのともだち以外の誰かのことは、無視できないと辛いと思う、わかるよね。その苦しいのは、線を引けばおしまいなのにな」
「……」
「どうしても許せない?」
ただ静かに問う彼女は、答えもわかっているだろうに、待つ姿勢をとった。
結局、金の目は一度も上がらなかった。
見るという何気ない行為そのものを彼は恐れていたし、
見ないで動くということへの慣れもあった。
彼は、そっと髪飾りを足元に置いて、
セイに小さく会釈と、ありがとう、と言葉を残して、
ぺたりとうずくまった。
ちいさな両手が目をふさぐ。
力が入った、ように見えた。
身体が先に動いた。
慣れから、だろう。
慣れているのだ、セイは、こういうことには。
けれど制止する手があった。
彼女が、じっとセイを見上げていた。
あきれてしまう。こんな時にも彼女に魅入ってしまうじぶんに対して。
「うう、う」
うめく声がする。
セイは動けない。
彼女の制止など一歩ですり抜けられるのに。
抜けようと思うことができない。
思うことができないじぶんへのあきれと、状況そのものへの焦燥。
それらがセイの足をその場に固めていた。
「紫月きみ、目……」
「わたしは、」
痛みに震える声が森という名の虚空に吸われて消える。
ひと思いには難しいのだろう、両手も震えてうまく力が入らないようだ。
「もうぜんぶいやだ。なぜまだわたしを使うのですか。わたしはいらなかったはずです、貴女方の計画には、わたしは最初からいなかったはずです。これ以上、わたしがだれかの記憶を背負う必要は、なかったはずでしょう。なにも消さなくて良かった、もうだれも苦しめなくてよかった、はずなのに、貴女方はまた、そうやって」
ことばが――溢れていた。
シヅキがここまでしっかりと口で話しているのを、セイは見たことがない。
筆談ならともかく、口では単語を出すのがやっとくらいの発語能力だった。
間違いなく。
それが、急に、発露したのだ。
赤ん坊は周囲の会話を聞いて、ある時期からとつぜん話し出す。
それと同じことが、彼にも起きたのだ。
このひめきで過ごした数年によって。
「過去は。ただでさえ戻りません。形もありません。それをどうしてわざわざ踏み躙らなければならないのですか。消さなくても、夢を注いで掻き乱さなくても、どうせ消えるのに、まだ、貴女方みたいに、忘れたいと思うならせめていい、けど、町のかたがたは、『つきくん』、は、違いますよね」
喋り慣れない彼がいよいよ咳き込む。
それでも手は両目から離れず、また、言葉にうめきが混じる。
彼女がふと立ち上がった。咄嗟に、というか、衝動的にか。
みどりの目が、うつむき垂れた前髪のすきまからひかっていた。
シヅキの言葉はまだ続く。
「過去は、必要だから。こころは、過去からしかこたえを探せないから、すがる、最後の砦だから、必要なのに」
セイは見慣れた緋を、はじめて母でないひとのそれを見た。
不完全な造りの地面に、際立ってなまなましく、落ちる。
血に染まった手は、ますます震えを大きくしていた。
裏腹に、声は、揺るぎなく、響く。
「どうせかみさまなんていない、届きやしない! いま、手の届くものを、せっかくまだ憶えているものを、そんなもののために、どうして手放すんですか。貴女だって手放したかったはずはないのに! 貴女の、貴女のたいせつなひとの、他にももっとたくさんのひとの、心を殺してまで、やることですか! わたしは、わたしはもうそんなのごめんだ!」
透明と緋のまだらに混じった液体に手を染め、彼が叫んだ。
叫びが、ゆるゆると力を失って、やがて弱々しいうめきに変わる。
いたい、とうわごとのように言って、彼が泣いた。
完遂にはまだ至らない。
けれどもう目はほとんど見えないのだろう。
セイは硬直したまま、からっぽの耳にその声を流し込んだ。
2019年4月1日
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