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Fictional forest
「リアリティスプレッド」

「湖、電話」

 身仕度の途中、久々に聞く母の声とともにノックの音がした。
 福居湖はとうぜん眉をひそめた。
 寝起きの回りにくい頭でも、かかった電話に心当たりがないことだけはわかっていた。

「誰から?」
「学校」
「はあ……?」

 乾いた喉を咳払いで保たせて、ウミは自室の戸を開ける。
 母の手から受話器を受け取り、すぐに戸を閉め、耳に当てた。
 かすかなノイズ越し、どこかで聞いた気がする教師の声がする。

『おはようございます、福居君、起きてて良かった』
「はあ、で、本題は?」
『はい、急で悪いんですが、今日、学校に来てくれますか』
「は?」

 ウミは思わず枕元からじぶんの携帯を手に取り、日付と時間を確認した。
 いくら見ても変わらない。
 学校もきょうは休みだ。
 疑念が、眠気を晴らして、思考がまわる。
 休日に呼び出すというのはつまり、人払いが必要な話で呼ばれたか、
 平常の学校業務と関連しないなんらかの事柄で呼ばれたかだ。
 そういう心当たりなら、なくもない。
 三年前、小学校の放課後にも、似たようなことがあったからだ。
 ウミが明確に登校拒否をはじめてからはなかったはずだが。

「一応聞きますけど、きょう日曜ですよ」
『ええ、だからです』
「周りにひとがいない方が好都合な話をしろってこと? ですか。場所が学校である必要は? 俺、行きたくないです」
『それは……』

 担任だったか、たぶんそうだ。
 そのくらいの認識で、口ごもる誰かの声を聞いていた。
 片手間に、ツカサ宛に本日は行けないかもしれない旨のメールを打つ。
 文面が完成し、送信まで済んだところで、返答があった。
 やはり学校に来てほしい、と。
 ウミは見せつけるように大きなため息を残して、わかりましたと答えた。
 着かけていた服を脱ぎ、ほとんど真新しいまま仕舞われている制服に手を伸ばす。
 そこで考え直して、やっぱり私服を着込んだ。
 まあ、いいだろう、休日だから。
 生徒として学校に所属するのは、まだ気が引ける。
 ウミは、ウミだから宛にされているはずなのだ。今回は。

 ひめき市立第一中学校は、案の定閑散としていた。
 運動部も日曜には練習がなく、職員室に灯りも点いていない。
 狭苦しい職員用通行口で担任に出迎えられ、わざわざ昇降口に行き直して、置きっぱなしだった新品同然の上靴を履く。
 誰のかげもない昇降口に、私服のウミの姿は不釣り合いに思えてうつむく。
 何百の生徒に踏まれ軋んだすのこに、真っ白な上靴。
 かえって際立ったおのれの場違いさに息をついて、もう、考えないことにする。

「あの。……教室は嫌なんで、別の部屋で……お願いします。じゃなきゃ、帰ります」
「大丈夫です」

 担任の案内で通されたのは、乱雑に教材の積み上がった教科準備室だった。
 何人かの大人がウミを待っていて、人当たりの良さそうな笑みを浮かべている。
 見覚えのある光景から目を背けて、ウミは目前の椅子に黙って腰かけた。

「挨拶とか自己紹介とか……いいんで。話は付き合うんで。他は勘弁してください。……本題は、なんですか」

 じぶんの膝だけ見てそう吐いた。
 大人たちが困ったように顔を見合わせる様子も、見なければ知らないことだ。
 担任が背後でがらがらと立て付けの悪い横引き扉を閉めた。
 ほんとうは耳も塞ぎたいのにな、と思った。

「福居湖くん、で間違いないですね」
「……はい」
「単刀直入に言いますよ、ここ数日で、貴方と同じく"悪夢障害"の疑いがみられる児童が、市内で新しく148人、確認されました。現時点で、ですので、まだ増える可能性はあります」
「ひゃく――」

 ウミは思わず顔を上げて、目前に座る大人たちの顔を見た。
 初見の柔和な笑みをひそめ、険しい表情をしていた。
 それもそうだ。
 ウミは、悪夢障害を理由に、特別扱いされてきた。
 特別だったのだ。
 それが急に三桁などと言われれば、動揺もする。

「我々は途方にくれています。心当たりは、ありませんか」

 なるほど、それは緊急に呼び出しもするだろう。
 ウミは動揺を呼吸に乗せて溶かして、つとめて冷静に、答える。

「俺は。……たぶん同じ時期から、悪夢をまったく見てないので。……なにも、わかりません」

 今度はウミの見ている目の前で、大人たちが目配せをする。
 ひとりが、メモパッドにペンを走らせている。

「それはいつから?」
「9月……18、くらいです」
「少し前ですね……その時期から増えていたのかな。悪夢を見なくなったきっかけみたいなものは、なにか思い当たりますか」
「……」

 ウミは何気ない癖のふりをして、タートルネックの首もとに触れた。
 もうかなりよく見なければ跡は確認できない。
 ただそこに跡があったことは事実だ。
 それから、街灯の下で見た、端正な文字列を思い出した。
 もう眠っても大丈夫ですよ。
 シヅキがそう言ったのだ。
 だとするとだいたいの見当がつかなくもないが――
 そのことは、言えないようになっている。

「さあ……わからないです、なんか、急に」
「そうですか……」

 ウミの言ったことはそれでもほとんど本当だった。
 なにもわかってなどいない。
 説明を求めたいのはこっちだ。
 夢の正体も、シヅキの関係も、ましてや唐突な悪夢障害の蔓延も。
 ウミに知る由はないだろう。
 ウミは、これから、正しく無知な存在になってゆくのだから。

「何かあれば、ここに連絡を」
「……はい」

 話はそれで終わって、担任が役人たちを送るのを、そのままの体勢で待った。
 準備室の窓からは、近所の住宅が連なって見えている。
 ふと、ひとりであることを意識した。
 高所と言うには物足りない、ここは二階だが――
 音のしないように、窓辺に立つ。
 やはり景色は変わりない。
 なぜだろう、と考えた。
 三年前の夏休みから、ウミにはどうしても森が見えない。
 孔は確かにここにあるのに。
 意識が、森とは繋がっていないのだ。
 そこに理由は、あるはずで、ずっと無視してきた。
 今回のこともそうだ。
 何か大きな変化を知ったとして、理由を暴こうとするかといったら、しない。
 暴けると思わないし、暴かなくたって生きていけるから。
 でも、と今しがたいただいた名刺に目を落とす。
 新たに発症したという148人。
 彼らはどうなのだろう、悪夢をどう受け取り、どう動くだろう。
 自分と同じように苦しむのだろうか。
 そのことはいいが、それを引き起こしたのがもしもウミの知る人間なら――。

 名刺を上着のポケットに押し込んだところで、担任が戻ってくる。

「福居君」

 黙って窓辺を離れ、廊下に出る。
 まっすぐ昇降口を目指す。
 表情を曇らせた女性教師が、不安げに口を開く。

「うちのクラスでも八人が発症しました。五人が一昨日は欠席で……」
「先生は、ひめきに住んでますか」
「……いえ、私は」
「じゃあ、よかったですね。心配しなくても巻き込まれないと思いますよ」

 会話が途切れ、それきり黙って、ウミはそそくさと靴を履き替える。
 別れ際、急な呼び出しへの謝罪とともに、手土産を渡された。
 中身は子供じみたお菓子の詰合せだった。
 担任が自費で用意したのだとしたら、ご苦労なことだ。
 形だけ礼を言って受け取り、帰路についた。
 そのまま基地に向かってもよさそうな気はしたが、気力が尽きてしまった。
 もうきょうは帰って寝たい。
 それだけ思って、歩く。
 昨夜遅くまで続いた雨は上がって、秋晴れが突き抜けている。
 乾いたばかりのアスファルトを踏みしめるウミは、もう場違いではなかった。
 町をただようのは、嫌いではない。
 歩くうち、かすかな安堵を抱いて、力を抜く。
 と――

「なあ!」

 虚を突いて、年下だろう少年の、明るい声が耳をつらぬいた。
 すぐ後ろから、のように聞こえた。
 ウミはぴたりと足を止め、周囲を見回す。
 道端の花壇でチョコレートコスモスがさわさわと揺れているだけの路地。
 ほかに誰のすがたもない。
 幻聴か。それにしてもできすぎてはいないか。
 遅れて、じわじわと動悸が速まる。
 声は覚えていない。
 それでもこの状況には心当たりがあった。
 三年前の夏に。
 思い出そうとすると、急に胸が痛む。
 動悸を抑えよう、まずは。
 携帯端末を取り出し、コールをかける。

「あの。……団長」
『はいもしもし、どしたウミ』

 即座に出た彼の声に、いまの一瞬が嘘みたいに呼吸が楽になる。
 こんな時にだって、そういう雰囲気が、間違いなくある人だ。
 ひとつ、深呼吸をして、言うべきことを言う。

「学校に呼び出されて。行ってきたんですけど……団長は、状況、把握してますか」
『え、ごめんなにも。なにがあった?』
「悪夢障害……新しく、148人だそうです。ここ数日で……爆発的に増えてるって」
『は』
「しいちゃんに伝えてください。なにか解ると思う、ので」

 電話口の向こうが緊迫する。

『わかった、俺も調べてみる。連絡ありがとうな』
「あ、と、それから」
『ん?』
「……いえ」

 なんでもないです。と言って、ウミは通話を切った。
 ただ、用件の数に比例して、呆気なく話が終わってしまうのが、寂しかっただけだ。
 べつに、用件を伝えるためにかけたのではないのに、結局、
 ちょうどいい用件があったから、そういうことにしてしまった。
 軽い見栄みたいなもの。
 だが、落ち着くという目的は達成した。
 携帯を仕舞い直して、ウミは天を仰ぐ。
 コスモスの花壇の端に、いただいた菓子の詰合せを、紙袋ごと置いていった。
 そうしなければならないと思った。

 四日目。
 濃い蒼のもとで、世界はにわかに動いていた。


2019年3月26日

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