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Fictional forest
「レトロスペクト」

 翌朝になって、重たかった雲がついに瓦解して落っこちてきた。
 雨の日の移動はバスを使う。
 湊月咲は駅前からバスに乗り込み、結露の落ちる様をながめていた。
 ソノ、ウミ、シヅキも、各々に静かに過ごしている。
 基地の四人が揃って出掛けるのも久々だ。
 以前は日常だったこの光景も、いまはわずかに緊張感を帯びている。

 目的の停留所はなにもない住宅街の真ん中にあって、
 そのなかでいちばん大きなマンションに向かって四人は歩いた。
 マンションは一階がコンビニになっていて、店舗の脇に階段がある。
 会話もなく、みなが軒先で傘を閉じ、ツカサを先頭に階段を上がった。
 ――高橋成の家。
 インターホンから間延びした電子音が鳴る。
 時刻は朝7時半。
 早朝のうちに行かないと居ないと思う、とは、シヅキからの情報だった。
 扉はすぐに開かれる。
 すっかり身支度の終わったセイがひょっこりと顔を出した。

「あれ、こんにちはみなさん。どうかしたんですか」
「おはよう成。ちゃんとお別れしたいって、園が。今日、いい?」
「はーなるほど。いいですよ」

 にこ、と笑顔が咲いて、セイが四人を室内へ招いた。
 ツカサとソノははじめてセイの自宅に上がる。
 殺風景だ、というのが真っ先にくる印象だ。
 八畳間の壁際に四人掛けのダイニングテーブルがひとつ。
 反対側に収納がいくつか。
 家具はそれだけだった。
 壁にシヅキの絵が飾られているのが、どうも似合わない。
 やけに綺麗に掃除が行き届いていて、新築みたいだ、と思った。

「椅子足りないや。クッションだしますね」
「良いよ。床きれいだし。みんなは?」
「大丈夫ー」
「大丈夫です」
「そですか? じゃお茶淹れてきますね」

 テーブルには三脚の椅子が添えられていたが、使用感があるのは一脚だけだ。
 なんの違和も感じていないのだろう自然な動きで、セイがキッチンを漁っている。
 彼はずっとここでひとりなのだ。
 聞き齧っただけだが知っている。
 ツカサはかすかに共鳴した虚無感をおぼえて口を閉ざした。

「すごい雨だねえ、きょう」ソノが話し出した。「おかげで起きるの大変だったあ」
「園、低気圧弱いんだっけ」
「まあ人並みにねえ。団長は平気なひと? いいなー」

 まったく当たり障りのない話題。
 ソノもこの部屋についてはコメントしづらいようだ。
 そうこうして、セイが盆を抱えてくる。
 花見よろしく、床にランチョンマットを敷いてカップを並べた。

「カップ揃わなくてすみません」
「いいよ、いきなり押し掛けたのにありがとう」
「いえ平気ですよ。俺、暇人ですし」

 セイは答えながら、自然と出来た輪のなか、シヅキとウミの間に座る。
 まずは各々用意されたお茶を口に含んだ。
 ただの緑茶だが、驚いたのが、明らかにしっかりと冷ました湯で茶葉から蒸らして淹れられていたことだ。
 しかもほとんど手慣れた風に。
 独り暮しで、ここまで凝って茶を淹れることはあるのだろうか。
 少なくともツカサにはない。
 やりかたを教わる相手もいない。
 セイには、誰かいたのだろうか。
 父か、母か。

「ね、セイくん。思い出したってほんと?」

 と、ソノが両手にカップを持って問う。
 セイは「はい」、と軽く答えて、カップを置きがてらマットを整える。

「まあ、赤羽さんの言った通りで、俺の記憶を消したのは俺でしたよ」

 隠す気のない発言に、ツカサはどきりとしてしまう。
 もうツカサにだって隠す理由はないのだが、長年の癖はなかなか抜けない。
 ソノに対してはエラーの話を出さないように、と常に考えてしまう。
 しかしセイには最初からそれがないのだ。

「なんで、それさえわかればすぐでした」
「そっかあ。セイくんのって、どういう力なの」

 みたび笑顔をつくって、セイは、暗示ですよ、と答える。

「みなさん、ここでの話はここ限りでおねがいしますね」

 ほら、人に言う気が失せたでしょう、とセイ。
 ソノが反応しかねて押し黙った。
 仕事をすることを封じられれば、ソノにはなにもする理由がないのだ。
 ツカサは、ずるいな、とまず思った。
 純粋に彼の持つ力が羨ましい。
 彼に敵はいない。敵の心を曲げられるから。
 ツカサの確率変動は、起こる事象を指定できても、人の心には届かない。
 命を懸ける形でしか、彼女を守っていられない。
 彼は、自分を捨てることなく、彼女を守っていられる。
 その彼がいま彼女のとなりにいるのなら、たぶん、そのほうがいい。
 そう思えてしまうから、俯いて茶を口に含んだ。

「ってわけで、そろそろ整理つけませんか、こっちもそっちも。ねえ湊さん」

 虚を突かれて、ツカサは咄嗟に顔をあげる。
 セイは変わらずほほえんでいた。
 記憶や立場がどう変わっても、すこしも変わらない振る舞いで。

「俺、知りたいことがいっぱいあるんです。聞かせてくれますよね」

 そういうことか、と、ツカサはカップを手に思案する。
 こちらから押し掛けたはずが、完全にセイのペースで空気がうごいている。
 これは、ツカサに秘密を吐かせるための舞台設置というわけだ。
 どうすべきなのか、あまり冷静に考えられない。
 セイの暗示の効力を信じるなら、話しても問題はないはずだ。
 が、たぶんこの抵抗感はそういうことではなく。
 言うことは、ツカサにとって、あまりに特別で神聖だから。

「話したら、」両手でカップを握りしめる。「行かせてくれる?」
「さあ、気分によります」セイが即答した。
「気分って……」

 かすかな沈黙のうち、セイのとなりで、ウミがため息をついた。

「高橋……お前。わかってるよな」
「うん。でもさ。湊さん、言えるの、たぶん今だけですよ」
「……わかった」

 ツカサはぽつりと答えて、手のなかの水面を見つめた。
 蛍光灯のもと、白のカップに揺れるのは、じぶんの目とおなじ色。
 因縁の色。
 かすかに頭が痛むのは雨のせいだ。
 息を止めて、吐く。覚悟を決める。
 このまま、身を危険にさらすこともなく暗示を解いてもらえる可能性が、少しでもあるのなら、言うしかないのだ。
 ああ――やっと言える――
 手のなかで水面が震えた。

「この場限りだ。――解除」

 視界の隅で数式が動く。
 ことばを発することによる致死率、なんて、
 そんなふざけたパラメータが、あるべき姿に戻っていく。
 カップを床に手放し、緋を見据えた。

「何から聞く?」
「彼女とどういう関係ですか」

 セイの返答は早い。
 ふわふわ笑ってはいるが、どこか切羽詰まったようなリズムに聴こえた。
 あるいは挑戦的な。
 セイにも思うところがあるのだろう、彼女に対して。
 だから、これはきっと、感情の背比べだ。
 それなら負けるわけがなかった。
 気を抜けば震えそうな呼吸を整える。

「きょうだい、だと思う。四年前まで一緒に育った」

 ここはセイとツカサの戦場だ。
 外野が各々に反応するのを、どこか遠い出来事のように見た。

「松理は。父さんが連れてきた捨て子で。……家族ぐるみで、彼奴のことは世間に隠してた。ばれたらどうなるのか、ちゃんと知ったのはかなり後だったけど。彼奴がそうしろって言うから。軟禁してた、俺の部屋に、十年」

 痛かった。
 力の影響はもう無いはずなのに。
 ことばを吐くごとに、痛む。

「俺は松理の目だった。そう、言われた。俺が見た景色を見たいって。だから。松理が喜ぶ景色を見せようって、そう思って生きてきた。し、彼奴が見たものは俺も見た。ずっとふたりでいるんだと思ってた」

 息がしづらい。
 今まで、頭の隅に掃き溜めた想いが、ぶくぶくと膨らんで、浮かび上がってくる。
 それでもまだ負けられない。
 彼女のとなりにいるのは自分がいい。
 それを、赦してほしい。

「四年前、彼奴、急に自殺したからさ。母さんを、殺しといて、俺にぜんぶ任せてさ。ほんと、ふざけんなよな。説明もなしで。……君に会うまで、ほんとに死んだかもって思ってた」

 会話の傍で、シヅキがうつむいている。
 そうだ。
 彼女とツカサとのかかわりは、間接的だが、続いていた。
 ツカサは気づかなかったし、シヅキも言わなかっただけで。
 シヅキがなぜ彼女と繋がっていて、ツカサのもとにいるかは、知らないが。

「松理が、忘れるなとか遺書で言うから。俺だって忘れたくなかったから。上書きされないように、基地に逃げてたのにさ。すぐ邪魔されて、この様だ」

 思い返すという行為は、紛れもない自傷だ。
 ツカサは彼女の為に在ったし、なにがあっても変わらないと信じていた。
 はずだ。
 こんなにも余計な荷物を増やしてしまったことは、悔やみきれない。
 もっと強く在りたかった。
 けれど、もしツカサがもっと強ければ、
 あれからずっと基地でひとり、過去にしがみつくことを貫いていれば、
 こうして彼女に辿り着けることもなかったのだ。
 だからこれでよかった、そうこじつけて納得ができるか。
 ツカサにはできない。
 だって、いま、苦しいから。

「それで成は? ――松理は、この四年、なにしてたんだ」

 息切れを隠して切り返す。
 じっと聞いていたセイは、やはり笑って、

「俺は力が便利だから通りすがりにこき使われただけです。詳しくは知りません」

 自嘲的に答えた。

「言わせといてなんだよって思うだろうけど、俺、ほんとにただの便利屋だから、なにも知らせてもらえないんです。紫月はわからないけど」

 セイの視線が手元に落ちる。
 残った液体を一気にあおって、またカップを置いた。
 言及されたシヅキが、所在なげにうつむいている。
 彼のことは、わからないままだが、どうにも聞こうとは思えなかった。
 聞いたら彼が壊れてしまうだろう確信があって、口を出せなかった。
 ごめんなさいとだけ言った彼のちいさな声が、耳に残っている。

「なんでかなあ。俺、四年も彼女とほぼ毎日いっしょだったのに、彼女に貴方が、特別なひとがいることだって知らなくて、でもぜんぶ知りたくて、知らないとついていけないから、それがずっと嫌だったから自殺もしたし、記憶も消したんだけどな、逃げ切れなかった」

 セイが息を吸う。
 言葉のわりに、口調はおだやかだ。

「湊さん、ごめんなさい、やっぱまだ気分は変わらないです。俺の暗示が嫌なんですよね、でも俺も貴方が彼女に会うの、すげえ嫌です。怖いんです、この生活が終わりそうで。彼女がいなくなったら、俺、なんもないですから」

 だから邪魔するなら死ぬ気でしてください、と言って。
 セイは、それしかつくれる表情を知らないのだろう、力の抜けた笑みを浮かべた。
 ツカサは、わかった、と答えた。
 もとからそうするつもりだったのだから、変わらない。
 ただ、互いに、解っただけだ。
 彼女を見ている。追っている。
 それが譲れないから、命もかけるし、力を振りかざす。
 ――俺たちは、同じで、だからとても遠い。

 三日目。
 窓の外で、まだ雨が止まない。


2019年3月24日

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