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Fictional forest
「パラレルライナー」

 最期の足掻きと言わんばかりの残暑を、厚い雲が地上に閉じ込めていた。
 目覚めの悪い朝は気候のせいだろうと思う。
 びっしょりとかいた汗の不快感に起こされ、たまらずシャワーを浴びた。
 そうして検温すると、しつこかった熱はあとかたもなく鳴りを潜めていたのだ。

 赤羽園は、駅前でシヅキと別れ、電車に乗り込んだ。
 顔の傷跡を丹念に隠した姿で。
 病み上がりだからとマスクをしているが、それがまた暑くて不快だった。
 ソノの嫌いな最たるものが暑さであることは断言できる。
 じぶんが半袖を着られないという意識が、暑いという実感を助長させていた。
 だが、いくら不快なことが多いからといって、これから赴くのは『取引先』だ。
 ひとりの大人として振る舞わなければならない。
 電車に揺られるうちに、ひとつ、大きく息をついておいた。

 株式会社築沢薬局本社ビル。
 ソノは迷わず奥へ奥へと進み、セキュリティを抜けていった。
 製薬社のセクションに待ち受けていた案内係と挨拶を交わし、小部屋に通される。
 白く、味気ない、応接間というよりただの小会議室だ。
 そのくらいに思われているのかな、と、かすかに訝ってしまう。
 外部の、若い女性の、フリーの情報屋。
 軽く見られそうな要素はいくらでもあった。
 ずっと気が重い。
 暫く待つと、前回に話したのと同じ開発部員が、サンプルを抱えてやってくる。

「送っていただいた実験データ、ありがとうございました。お陰さまで改善が続いていて」

 厳重なケースが机上に置かれる。
 ロックを外し蓋を開くと、薬瓶におさまった白い粉が姿を表した。

「いちおう、こちらが現在のものです。まだ致死性が高すぎるので、薄めるのにもう少しお時間をいただきたいのですが」
「何日かかりますか」
「数日内にはお届けします。注意事項だけ、ご確認お願いします」
「はい。ありがとうございます」

 ソノは差し出された書面に目を落とし、黙った。
 薬品名や物質構造のことは読んでも理解ができない。
 人体へ及ぼす影響に関してだけは、じっと読み込んだ。
 ほとんど未調整の薬品だ、危険性は有り余る。
 およそ考えうるありとあらゆる副作用名の羅列に目眩がしそうだった。
 これを、いきなり人に試そうなど、正気の沙汰ではない。
 正気の沙汰では済まない状況なのだから、と自身に言い聞かせる。
 何かがあったら、どうなるのだろうとも思った。
 ツカサがこれで死んでしまうようなことがあれば。
 仕事で成り立つ私の生活はどうなる。
 よければ帰宅、悪ければ収監、
 もっと悪ければ、これをネタに家族関係が悪化した状況での帰宅、か。
 みっつめの可能性がどうやら高そうだ。
 覚悟だけはしておかなければならない。

「それから、有事の際にはこちらにご相談できます」

 またずいと渡されたのは、ひめき市内の見慣れぬ会社の概要が記された紙。
 聞けば、公にしにくい事業を請け負う小企業なのだそうだ。
 市政とも関係があり、よほどのことがなければもみ消すことができる、と。
 当たり前のようにそう説明された。
 もう、ただ事でないことは、すっかり伝わってしまっているようだった。
 あるいはこの製薬事業自体が日常的に『ただ事でない』のか。
 考えながら、紙をまとめてファイリングした。
 それから、いくらかの確認事項について言葉を交わし、相手が席を立つ。

「少々お待ちください」

 ソノは言われたままパイプ椅子に腰を沈めながら、なんだろう、と思う。
 もう用事は済んだはずだが――
 カチコチと秒針の音だけが大きく響く小会議室。
 淡白な景色に思考を融かしていると、やがて廊下から足音が近づいた。
 等間隔で、落ち着きと重みのある音。
 耳に覚えがあった。
 ぞわ、と嫌な汗が背を湿らせる。
 姿勢を正し、細く息を吸う。
 扉が開く。

「お久し振りです」

 はじめに口を開いたのはソノだった。
 挨拶は先にさせるな、と指導されていたからだ。
 黒いスーツ姿の男性が――父が、なにも言わず向かいに腰かける。
 さながら尋問にかけられたかのような緊張感が秒針の刻みを遅くした。

「あの、今日は……?」
「園」

 遮るように名を呼ばれた。

「はい。おとうさま」
「うつぎから緊急に極秘連絡が入った」

 この部屋の内装などよりよほど淡白な口調で、父が言った。
 唐突な内容に、思わず室外に物音がないか確認してしまう。
 うつぎとは、湊夜空の経営するホームのことだ。
 調査開始から間もないため、うつぎに関する情報は乏しい。
 総勢五人のこどもを抱えており、その全員がエラーであること――
 知っているのはそれだけだ。
 それだけの相手が、中堅企業の社長に極秘で連絡をした。
 いよいよただ事ではない。
 逆に頭が冷えて、ソノは押し黙る。

「結託するよう要求された。ひめき市政には悟られずに、うちの調査内容、技術と、あちらの情報、エラーの運用を共有しようと。拒めばおまえを保護するとも。どちらにしろ、彼方はおまえの持つ情報が欲しいんだろう」

 結託――そうか。
 そうやって、うつぎが市政のなかにもひそかな繋がりを作り、情報を得ていた可能性はじゅうぶんにある。
 ひめき市で唯一、エラーをひとつところに束ね、管理している者。
 脅しのネタには事欠かないだろう。
 これで、ツカサの持つ異様な情報力、権力にも納得が行く。
 それにしてもソノを保護するとはまた思いきった脅し、もとい提案だった。
 ソノにはエラーがない。
 生まれ育ちがひめきでなく、悪夢も見ず、超能力もないのだが。
 それでも保護する価値があるのか――と、考えてしまう。

「承諾できない、と答えた」父は静かに続けた。「話にもならない提案だと」
「……」
「これから、おまえに、彼方側からなんらかのアプローチがあるかもしれない。が、得たいの知れない危険なやつらに、おまえを関わらせるわけにはいかない。だから、もう帰ってこないか。向こうが諦めてからでも調査は遅くないだろう」

 きょうの父はやけに静かだと思う。
 たぶん、ソノを引き戻すために、優しくしているのだ。
 しかし、答えは決まっている。
 ノーだ。
 ただ、答えるまえに、問うことにした。

「おとうさま、……そもそも、なぜ、わたしを雇うことを、許したのですか」

 わずかな沈黙に、秒針が揺れる。

「おまえを外に出すつもりはなかった。が、仕事としてなら、企業の顔がきくうちは傘下だ。おまえがどんな不祥事を起こしても、たいていうまくやれる」

 密かに息をつき、机に視線を落とす。
 自由になれたと浮かばれていた自分、はなから管理する気でいる父、
 双方の食い違いを、いまさら理解して、馬鹿らしくなった。

「……つまり、うつぎと関係を結べば、わたしを管理しきれなくなる、ということですか」
「そうだ」

 まったく、馬鹿な話だ。
 すなおに結託しておけば、企業傘下の建前も壊れはしない。
 定時報告もいままで通りにあるだろう。
 ふつうに考えてデメリットがあるようには思えないが。
 不安なのだろう、父は。
 相手がソノを保護しかねない立場だからだ。
 ソノが父から離れようとするあらゆる道筋を潰したいのだろう。
 見え透いている。

 ソノは机の下に隠した手で携帯を掴む。
 音のしないように開いて、予め設定されたショートカットキーに指を置く。

「わたしは、帰りません」

 はっきりと告げた。
 父の顔が険しくなる。

「うつぎから何を言われても、絶対になにも応えないとお約束します。ただ、いま帰るわけにはいかないのです。調査を、させてください」
「なぜ」
「定時報告に書きましたが、対象の動きがいま非常に活発で、いまを逃したらわからないことが、いくつもあると思うのです。対象の秘密を探るために、四年もやってきました。無駄にしたくはありません」

 父に逆らったことが人生で何度あっただろう。
 思い付く限り、一週間前にツカサに頼んだ脅しが唯一だ。
 抗うすべを知らなかった。
 抗うという選択肢が頭になかった。
 ずっと、父の言う通り、父の傘下で、管理されて、なにも考えず生きてきた。
 それを覆してくれたひとが命をかけている横で、なにもせず帰りはしない。
 ソノはそこまで薄情ではない。
 そう思われなければならない、少なくともツカサからは。
 そもそも帰りたくないというのも、むろんあるが。

「おまえ……」

 父の限界が近い。
 染み付いた感覚で、ソノには手に取るようにわかる。
 だから席を立った。
 逃げるように。逃げるために。
 キーを押し込み、携帯をポケットに戻す。

「では、仕事がありますので。もう、失礼しますね」
「おい。話はまだ終わってない」

 終わったよ。
 始まりもしない。

「話にならない提案ですよ」

 吐き捨て、ドアを開こうとする手が掴まれる。
 遅かったなあ、とだけ、どこか冷静に思って、立ちはだかる父を見上げた。
 さて、どうなることか。

「ふざけたことを言ったな。撤回しろ」
「……できません」
「仕事がそんなに大事か。危険があるからおまえを守ってやると言ってるんだ」
「もう多少の自衛はできます。エラーに対処できないのはおとうさまも同じはずです」
「口答えが多い」
「なら黙ります」

 煽っている自覚がある。
 はち切れんばかりの怒りの表情が目前にある。
 手は掴まれたままで、じんじんと痺れてくる。
 それでも、なぜか今日だけは余裕があった。
 ふいに口許が塞がれ、脇腹に蹴りが入った。
 怒りは瞬発だ。怒りに乗った暴力も。刹那的なもの。
 だから耐えられる、いつかかならず終わるから、と信じてうずくまる。

「さいきん定時報告もしなかったことがあったな。対象の家で。何を吹き込まれた」

 答えない。

「それとももうあの得たいの知れない奴らと繋がりがあるのか」

 それはない。
 否定したかったが、黙ると言ったのだから、もう意地だ。
 唇を噛んでいる上から、頭に拳が来て、口内に血が流れる。
 答えろと、ほとんど叫ぶような押し殺した声が降る。
 仮にも会社内、廊下に誰かいれば、大きな声は聞こえてしまう。
 こんなときにも見栄だけは忘れない、あわれなひとだと思った。
 痛みのせいで、生理的に涙がにじむ。
 傷口まで流れて化粧が落ちると困るので、袖を押し当てる。
 ――わたしも大概、父の娘なのだ。

「泣けば済むと思うな」

 泣かせたのは貴方だろうとか。
 余計なことだって言ってやらない。
 耐える時間は永遠のようで、たったの数分だった。
 父の携帯が震える。それが終幕だ。
 舌打ちとともに解放され、父が端末を耳に当てる。

「はい、どちら様でしょう。……は?」

 父の視線がふたたびソノに向く。
 ソノは唇の傷を舐めて立ち上がる。
 そのまま、茫然と立つ父を背にそそくさと部屋を出た。
 今度は間に合った。

 それなりに人のいるセクションまで早歩きをして、携帯を見る。
 通話中を示す画面に、湊月咲の文字があった。
 ひとまず受付に会釈をして、エントランスを抜け、外に出る。
 重たい雲はいまだに熱気をため込んでいて、暑苦しい。

「……ツカサ」携帯を持ち上げる。「なにしたの」
『録音して父に送って、父から電話いれてもらった』
「さすがあ。仕事が早いね」
『大丈夫か? 怪我は?』
「ちょっとだけ。大したことないよ」

 ゆったりと駅に向かい歩く。
 いまになってあちこちに痛みを感じたが、きっと暑さで気分が沈んだせいだ。

「薬はね、数日中には用意できるって。説明書、あとで渡すね」
『そう、ありがとう。あのさ園』
「ん?」
『なんでそこまでしてくれるの』

 くだらない質問が、やわらかく耳を覆った。
 風も、ノイズもなく、声だけを聴いて、少し笑った。

「いまさらなに」

 ソノがツカサに協力する理由は、細かくすればいろいろあるだろう。
 仕事だから、ツカサが死ぬと困る。
 彼が恩人だから、借りを返したい。
 友達だから、助けたい。
 単純に、父から逃げようとあがいた結果でもある。

「わたしにはこれしかないから」

 部屋のなかで生きていた。
 友達も家族も、まともにひとと関係性を持った記憶がさっぱりない。
 趣味もない、将来の希望も、これといった才もない。
 なにもない、父の鬱屈の捌け口でしかない。
 それが、はじめて外に出た。
 理由も、そこで得た関係性も、結局はツカサだった。
 互いに抱えるものが違うぶん、長く共にいたわりに、歩み寄れたとは思わないが、それでも唯一なのだ。

「ねえ、ツカサが死んだら、わたし帰るしかなくなるからね。あとのこと、頼まれたけど、きっと無理だからね」
『……』
「でも、頼まれたからにはやれるだけやるよ。いつかおとうさまにも逆らえるようになる。ちゃんと逃げて、ツカサの遺したもの守るよ。できなくても、恨まないでほしいけど」
『はは、死ぬ前提かよ』
「覚悟だけはするって話だよ」
『ありがとう。もし、ぜんぶ終わって俺が生きてて、まだなんかやる余裕があったら、君にだけ無理させないで俺が助けに行く。できなかったら、ごめん』
「うん」

 電話口のむこうから林のざわめきが聴こえる。
 耳慣れた音、耳慣れた声に、すこしだけ心が軽くなって、通話を切った。

 二日目。
 夏の残滓が終わる日だった。


2019年3月21日

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