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Fictional forest
「リターンライトアウト」

 伊田紫月は眠るソノの傍らにいた。
 9月20日。一日目。
 月明かりが頼りの室内、ソノの浅い息づかいだけが聞こえている。
 彼女の眠りはふだんはとても浅くて、シヅキがすこし動けば目覚める。
 が、きょうはいくらシヅキが隣で彼女の顔の傷を眺めても無反応だ。
 体調が悪いときにあれだけのことがあれば疲れるのも無理はない。

 シヅキは迷っていた。
 いまじぶんが何をすべきなのか。
 すべて投げ出して眠るか。
 森へ行くか。
 セイに、暗示を解いたことを伝えに行くか。
 そうしてぐるぐると考えているうちに時間が経ってしまう。
 あのひとの過去を消したこと。
 自身の罪を、ツカサにだけは知られたくない。
 彼の絶望を招くことはしたくない。
 あるいは、すべて懺悔して、ゆるされたいのかもしれない。
 ただ逃げたいだけなのかもしれない。
 ずっとわからないまま、居心地の悪い他人の家に預かられ、膝を抱えている。

 その日は結局なにもできず、朝が迫る時刻に眠りについた。
 起床したのは昼前で、先に目覚めたソノがパンを焼いて待っていた。
 彼女はまだ熱が下がらないようで、今日は安静にすると言う。
 シヅキは、彼女との遅い朝食のあと、身支度をして、基地に向かう。
 秋晴れに薄くひつじ雲がかかった天気で、町の空気だけはさわやかだった。
 基地では、ツカサとウミのふたりがただ静かに過ごしていた。
 珍しかったのは、二人ともがじっと本を読んでいたことだ。
 ウミはいつもの文庫本、ツカサはなにやら難しげな学術書にカバーをかけていた。
 ちらと盗み見ただけだが、おそらく薬学関係の本だ。
 これから自身の為すことの、一応の予習なのだろう。
 ――やはりわからない。
 ツカサは薬の力を借りて代償を和らげることで、セイに抗おうとしている。
 抗って、森へ行こうとしている。
 シヅキは彼を止めたいのか、荷担したいのか。
 どちらの方法もわかっているが、どちらを選びたいかが定まらず、動けない。

 ともあれきょうは誰にとっても安静にする日のようだ。
 シヅキはふと息をついて、久々に絵を描くことにした。
 基地の隅に置かれた棚から画材を取り出し、机に広げる。
 描くことは決まっている。
 うしなった過去の景色を。

 どこかの海辺ばかりを描くから、青がやたらに早く減る。
 そのため余分にストックされた青色の中から、一本を手に取る。
 白紙にインクの塊を擦り付けるだけで、過去の残像が残せるというのは、
 シヅキにとってはなけなしの希望みたいなものだ。
 だから出来る限り、精緻に、嘘偽りがないように、丹念に思い返して描いた。
 いつか暮らしていた掘っ建て小屋の、屋根の水染みひとつまで。

「なあ、紫月」

 ふいに声をかけてきたのはツカサだった。
 学術書を傍に閉じ置き、シヅキの手元を覗き込んでいた。

「いつも思ってたんだけど、その絵って、どこなんだ」

 いままでなら。
 絶対に答えなかっただろう。
 シヅキは沈黙の末にメモを取り出し、綴る。

『むかし わたしが暮した場所です』
「そうなんだ」

 つぶやくように答えて、ツカサはなおシヅキの止まった手元を見つめる。
 青と黒のせめぎあう紙面。
 そこに切り取られたものの正体は、シヅキしか知らない。
 小屋を出て林道を少し降りると海に面する岩場があった。
 岩場に布を敷いて座り、日がな釣りをして過ごしていた。
 そんないつかの、もう無い残照の、破片だ。

「俺、海見たこと無いんだよ」

 唐突にツカサが口火を切った。

「ずっと内陸に住んでたから。っていうか、ひめきを出たことがぜんぜんなくて」

 シヅキはクレヨンを握る手をふたたび動かしながら聞いた。
 話自体はもう知っていることだ。
 彼がこの町を出た経験は数えるほどしかない。
 その最後がどこで、なんの用事だったかも、シヅキは知っている。
 あのひとを通して、彼のなかの景色を見た。

「……見せてやりたかったなあ」

 もう、まったく、隠す気のない。
 そういう言い回しで、ツカサがぼやいた。
 少しだけ今までより力の抜けた、気楽で、覇気のない声をしていた。
 そうかと思う。
 彼はもう死ぬ気でひとりで秘密を守らなくてもいいのだ。
 ここには既に知る者しかいないのだから。
 その点では、その点だけは、救われたのだろうか。
 あるいは以前の方が彼にとって生きやすかったのか。
 それもまた、わからない。

「行きましょうよ」と、ウミが口を挟んだ。
「え」
「今度。いろいろ終わったら……皆で。俺もひめき出たことないんです」
「……そう。そうだな」

 頷いたツカサの真意は読めない。
 曖昧に会話が終わり、各々が作業に戻る。
 シヅキは画用紙に向かいながらふわふわと考えた。
 海のある生活がふつうで、山林を身近にした生活はここに来て初めてだった。
 シヅキにとってはこの町のすべてが珍しいが、彼らには逆なのだ。
 月並みな言い方だが、世界は広い。
 それならどこかにこの絶えない問いへの答えが転がってはいないものか――
 そうしているうちに、海岸沿いの岩場がはっきりと姿をあらわした。
 クレヨンを専用の袋に戻す。
 描き上がった絵をファイリングして、棚に押し込む。
 棚に並んだファイルはもう一冊や二冊ではない。
 単調で閉塞した暮らしをしていたわりに、残す景色は絶えなかった。
 なにもなかったが、たくさんのことがあった。

 そして、思い出す。
 遠いむかしに聴いた声、ことばの残滓。
 耳に残った声の高低さえもう思い出せないが、意味はまだ形を保っていた。

『どうせ、未来はないから――』

 棚の戸をぱちんと閉じて、静寂を駆ける、寒風に耳を澄ます。
 風の音だけは古今東西変わりない。
 シヅキの安堵できる場所はここではないが、ここにも変わらないものがある。
 だから思い出せることも、あるのだろう。

 ようやく答えが出た。
 シヅキは定位置に座り直して、見慣れた基地の内装を見つめた。
 過去を薄れさせる、ここにあるものすべてを、ほんとうは恨んでいた。
 簡単で、明白な、とっくに決まっていたことだ。
 世界の広さなど知る必要もない、むかしから決まっていたこと。
 他所からの異物たるシヅキは、最初から、なにもすべきではなかった。
 どうせ未来はないのだから。


 最後の一週間、一日目。
 さわやかで、風の強い日だった。


2019年3月15日

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