[携帯モード] [URL送信]

Fictional forest
「森」

 川辺の石に座り込んでページをめくる彼女を、すこし遠くから見ていた。

 セイの母が、産後すぐに自費出版した本。
 その中身は、字の読めるようになっても、セイにはわからなかった。
 神学か、哲学か、たぶんそういう部類の、与太話だった。
 過半数の読者に与太話と笑われたに違いない内容だった。
 それだけはわかる。
 セイのかろうじて読み取れた限りではこうだ。
 宗教とはまた別に、『神』の存在を、人間側の思想や行動から考察する。
 実在する社会のうごきの、あり得ない部分、隠された部分、
 そこに架空の神の存在をあてはめ、どんどん辻褄を合わせていく。
 そんな壮大な理論を、味気ない文面で展開していく。
 あまりの難解さにセイはたまらず数十ページで本を投げ出してしまった。
 それを彼女は何時間、じっと読み続けているのだ。

 夜色にかがやく水面に足先を遊ばせながら本に向かう彼女の姿は美しかった。
 けれど、同時に不思議でもある。
 物語はともかく、ああいう本は、たふん好奇心や興味から読むものだろう。
 世界のすべてが解るはずの彼女に、好奇心は存在し得るのか。
 疑問には思えど、読書の邪魔もできず、セイも静かに過ごした。
 彼女の読んでいない数冊をぱらぱらとめくったりもした。
 が、続かず、いまは草の上に寝そべって枝葉の天蓋をぼうと眺めている。

 と、ぱたんと音がした。
 本の閉じられる固有の音色は、この一週間で耳慣れた。
 セイは身を起こし、口を開く。

「どうだった」
「おもしろかったよ」
「そう……なんだ」
「世界は狭いね」
「どういうこと?」
「成くんのお母さん。こんなことをしてたんだねえ。もっと早く知りたかったな」
「……知らなかった、のか?」

 いよいよ問うと、彼女は本を傍らのケースに戻し微笑む。
 彼女の心に呼応して、森がきらきらとざわめいた。
 楽しい、のだろうか。
 此処は彼女そのものだから、彼女の心象で様子が変わる。

「うん、知らなかったの」

 ――彼女が、知らない。
 そんなことが、あるのだろうか。
 それとも、なにかとても特別なことがそこにあるのか。
 言葉に詰まって、セイはただまばたきを繰り返した。

「知らないことに気がつくのってむずかしいんだよ。こんなに近いのにね、わたし、ほんとうに知らなかったの。きみのお母さんがライターってことも、この本のことも」
「……まじ?」
「うん。あのね、わたしにわからないことはいくつかあって」

 彼女がにこにこと指を立てる。

「まずは、ひとが辿り着かない知識ね。宇宙膨張の理由とか、深海生物の生態とか、ほかにも。わたしはひとの記憶を読み取ることしかできないから。わかるかな?」
「う、うん……」
「それから、答えのない、曖昧なこと。恋と愛の違いとか、安楽死は罪かとか、そういうのは人によるしね。わたしにも、立場はあっても正解はないよ」
「まあそれはわかる、かも」
「それと、みっつめ」

 顔の前に立てた三本の指をひらりと振って、彼女は顔全体で笑みをかたどる。
 セイは細められたみどりの目に視線をとられて黙っていた。
 感触のない小川に素足をさらした彼女が、大切そうにことばを紡ぐ。

「現実のこと、だよ」

 ゲンジツ。
 それこそ現実感のないよっつの音を、セイは口のなかで反芻する。
 反芻されてやっと頭に入ってきた言葉が、また疑問符を呼んでくる。
 理解に苦しむセイを前に、彼女はただ楽しげだった。

「かみさまはいる。それが現実。でもね、わたしたちにはわからないの。彼にかかわる情報は、わたしたちの読み取れる形でなくなってしまうんだよね」
「えっ、と、つまり……?」
「USBメモリー。デバイス無しで中身を知れって言われてもできないよね、それと同じ。彼はわたしたちの読めないかたちの記憶でできているんだよ」

 このあたりで、セイはもう話について行くことを諦めた。
 ただ語りたいのだろう、彼女は。だったら黙って聞こう、と笑顔を見つめる。
 わからなくてもいい。
 いや、ほんとうはわかりたいけど。
 彼女がこんなに何かを教えてくれるなんて、珍しいのだ。
 いまはその貴重さを享受できればいい、と。

「わたしたちはデバイスを探している」
「でばいす」
「でもね、考えてもみて。ふつうは、デバイスなんて無いんだよね。無くて当たり前なの。他人のことはわからない、世界のこともわからない、だからどうにか言葉や行動を積んで、その反動をたしかめて、調べる、対話をするんだ。みんなそうやって何かを知るんだよね」
「うん……」
「この本は『対話』の理想形だったね。反動を分析して、本体を知ろうとしたんだ。ふつうのひとが、彼と、こんなに話をするって、すごいことだよ。すごく……勇敢で、危険なことだよ」

 彼女がふと笑顔を収めて、草の上に歩み出てくる。
 セイの目前で、ぴたりと目をあわせて、問う。

「きみのお母さん、壊れていない?」
「え……」

 予想外の問いに、セイは口をつぐむ。
 いよいよついていけない、聞き流そうと思った矢先、急に引き戻された。
 理解力に乏しいセイにも、あまりに身近で、明らかな話だった。
 数回しか逢ったことのない、母の姿が脳裏をよぎる。
 記憶のなかの母はいつも紅く鮮明だ。
 紅い血を流して、紅いうつろな目で。

「……すこしだけ、ふつうでは、ないかもな」

 回答はそれくらいがぎりぎりだった。
 セイにとっては、あれが唯一で、あるいは当たり前の母の姿だ。
 すこしでも悪いような言い回しをしたくはなかった。

「そう」彼女が目を伏せる。
「それも知らなかったのか」
「知らなかったよ」
「原因は、その、かみさま? との対話? ってこと?」
「間違いないと思う」

 彼女はセイと向かい合うかたちでぺたりと座って、うつむきがちに笑んだ。
 そっかあ、と、ほとんど息づかいだけのつぶやきを耳が拾う。

「巻き込んじゃったね」

 森を満たす光が弱まる。
 ほのかな藍に、水面がゆれている。
 セイは彼女を、森の景色のぜんぶをその目にうつした。
 難しいことはわからない。
 なにかしらを悔いているのだろうな、と、そう察しただけだ。

「きみのお母さん、きっときみを巻き込まないように、すごく気を付けたんだと思うの」
「巻き込む……」

 なにに?
 いや、それをいま話してくれたのか。
 セイは自身の頭の弱さを恨みながら、思う。
 つまり、こうか。
 母は危険なことをしていた。
 それに息子を巻き込まないように、ほとんど帰ってこない生活をして。
 けれど、セイはまた別の、彼女という道から、事態にかかわることになっていて、
 母は、昨夜にそれを知って、この本をセイに託した――
 その意図は、なんなのだろう。
 どうせ渦中にいるなら協力を、という意図ならいい。
 よくないのは――こうして彼女に経緯を知らせることで、ふたたびセイをここから遠ざけようとしていた場合、だ。
 セイには事態が把握できていない。
 が、その危険性はさすがにわかる。
 命を捨てる覚悟でこの森にたどり着いたのもそう。
 あの花に触れてほんとうの過去を見失ったのもそう。
 正直、さんざんだった。
 彼女にかかわってよかったことなんか、何一つない。
 が。だからといって離れたいわけでも断じてないのだ。

「ごめんね」

 彼女が、謝った。
 木々が揺れていた。
 誰に、どのことについての言葉なのか。
 そう問う前に、なぜだろう、怒りがわいてきた。
 セイが彼女に怒る動機は余るほどある。
 なにも知らせず利用したこと、
 利用したくせに放っておいたこと、
 放っておいたくせにはっきり遠ざけてはくれないこと。
 いや、よくよく思えばセイの自業自得でもあるが。
 どちらにせよ、あるのは怒りだった。

 衝動に任せて痩せた背を抱いた。
 彼女に触れたことはなかった。
 暗黙のうちに拒まれているのは理解していた。
 その壁を、破った。
 触れた箇所から脳内へ、どっと、彼女の心が流れ込んでくる。
 かすかに目眩がしたが、花に慣らされた頭はすぐに情報の流入を受け入れる。
 彼女の心が見える。
 さまざまに揺れていた。
 薄情なふりをして、役目に向かうふりをして、
 諦めたふりをして、悔やむふりをして、笑って、
 その実、すべてが嘘で。

「謝っちゃいけないだろ」

 セイは流れ込む感情に震えながらも言葉を吐いた。

「湊さん、きみだけは謝っちゃいけないだろ!」

 彼女は――
 ひとを殺した。
 呪ったし、利用した。
 想いだけ残して、捨てた。
 疫病神と言われた、ひどい人間だ、
 だが、だったら、彼女が謝ったら、彼女を追って生きたセイは、彼女に呪われて生きたツカサは、彼女に生き返らされたシヅキは、どうなるだろう。
 彼女にかかわったそれまでを悔やまなければならないだろうか。
 無駄だった、最悪だったと、嘆くばかりになってしまわないか。
 そうなるくらいなら。

「やり遂げろよ! 申し訳なかったことぜんぶ、必要で、大切で、悔やまなくていい、良かったことにしてくれよ!」

 怒り、なんて脆弱な感情は、彼女からの波に圧され、跡形もなく潰れた。
 言い終えるまでは保っただけ、よかったと言ってくれよ。
 セイは震える腕をほどいて、彼女の顔を見る。
 かすかに、苦し気に、口もとを引き結んでいる。
 セイの言葉が響いたわけではないとわかっている。
 彼女の中にあったのは、ひとつの使命感と、たくさんの誤魔化し、
 それに、おおきな恋がひとつ。

「わたしも、やり遂げたいよ」

 彼女が応える。

「でもね、成くん、もう、無理かもしれないんだ。おかしいよね、やり遂げるだけなら、遺すべきじゃなかったのにね」
「なにを――」
「『時』がね、来ちゃったんだ。言ったよね、いちばんさいしょ、わたし、きみにお願いしたよね」

 ――彼女の命日。
 セイが彼女と出逢った日。
 頼まれ、紡いだことばは、今もよく覚えている。
 時が来るまで、完全に、想いを封じる。
 思い至って、セイはようやく理解した。
 彼女は目的のために疫病神を演じてみせたが、それは、暗示により他の邪魔を除いて、やっとできる所業だった。
 時が来た、ということは、封じていた邪魔者が返ってくるということで、
 その正体はきっと――
 彼女の心をむしばむ存在。
 特別なひと。

「……大丈夫。まだ多少、時間はあるだろ。なかったら俺が稼ぐよ。できること、やってくれよ」

 セイはいよいよ悟った。
 じぶんが彼女に近づく余地はないのだ、ということを。
 悟って、彼女のふりをして、ただ笑んだ。
 その間だけは、彼女の視線はセイに向いている。
 だから、もういい。

「……、わかった」

 彼女が決然と目を上げる。
 森のざわめきが、水面の波が、止んだ。


2019年3月17日

▲ 
[戻る]