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Fictional forest
「知」

 目を開ける。
 フローリングの冷たさに身を委ねている。
 まめに掃除された床にぼんやりとじぶんの顔が映る。
 そこまで知覚して、高橋成はのそりと起き上がった。
 失神したのだ。帰宅後すぐに。
 固い場所にうつ伏せていたから首が痛む。
 時計の針は深夜2時を回っている。
 ぼんやりする頭を振って、外出時に着たままだった上着を脱ぐ。
 空腹も気になるが、とりあえずシャワーを浴びたい。
 寝間着を抱えて脱衣場に続くドアを開く。
 そこで気がついた。
 浴室の電気が点いている。
 セイはぱちぱちと目をまたたかせて、まず玄関を見た。
 ああ。

「おかあさん、帰ってるの」

 呼び掛けながら浴室のドアを叩く。
 抱えていた服を脇に置いて、もう一度叩く。
 返答はないし、水の音もしない。
 セイはノックに使った手をそのまま取っ手にかける。

「ごめん、開けるよー」

 なんの気なしに言って曇りガラスのスライドドアを開く。
 ぽた、と、やっと場にふさわしい水音が耳をつく。
 赤を目にした。
 タイルの床に波紋をつくったのは血液だった。
 えてしてそこに母のすがたを認めて、セイは一度部屋に戻り戸棚を漁る。

「久しぶり。おかあさん。何年ぶりだっけ。変わってないな」

 微笑んで、母の手を取り、傷を洗ってから、丁寧にテープを巻いた。
 傍らに置かれたデザインカッターについても没収しておく。
 湯船の縁に腰掛けた母は細身で、憔悴した目で己が子を見る。

「あ、血は乾く前に流してよ。落とすの大変だから」
「……」
「あと、俺入るから出て。そのあとご飯作るからな。待っててよ」

 母を半ば押し出すようにして、セイは脱衣場のドアを内側から閉める。
 脱いだ服に血がついていないか確認してから洗濯機に収め、
 まずは掃除だ、と洗剤を手に蛇口をひねる。
 床に散らかっていた赤が水のうねりに併せてぐにゃりと歪んだ。
 黒ずんだ水が排水溝に飲まれていくのを尻目に床を磨く。
 そんな作業も数分で終わって、セイはようやくちいさく息をつく。
 母は昔からこうなのだ。
 ふらふらとして、何日、何ヵ月、何年と家を空ける。
 たまに帰れば、こうやって血をまき散らかす。
 それだけ。
 その他に母について知っているのは職業くらいだ。
 話したことはない。
 母は息子に口を利かない。
 父とは、少しだけ、最低限の言葉を交わしたりもする。
 口に出ない言葉が出版物には出ているのだろうか。
 読めないことが歯がゆい気もした。
 かといって読む努力をするほどの思い入れもなかった。
 そうやっているうちに、ふと気づけば何年も顔を見てもいなかったなんて。
 少しだけ驚く。
 日々、いつ誰が帰ってもいいようにはしてあるから、
 急な帰宅にはたいして驚かないが。

「……俺も変わってないもんなあ」

 ぼやいて、浴室を出る。
 手早く着替えて部屋に戻ると、母はテーブルに伏して眠っていた。
 貧血でだるいのだろう。
 セイは母の肩に毛布をかけてキッチンへ向かう。
 水の入った鍋を火にかけて、換気扇を回してからエプロンを身に付ける。
 毎日、おなじ動作だ。
 いつから自炊していたのか、セイにもあまり思い出せない。
 小学校一年生のころにはすでにキッチンに立っていた。
 それまでは父が出来合いのものを買ってきていたような気がする。
 母の手料理というのを食べたことはあるのだろうか。
 わからない。
 ただ、エプロンはかつての母のものだ。

 食材を刻んでいると、ふいに母がセイの隣に立った。
 セイは手を止めて顔をあげる。
 眠たげな紅の瞳がセイをとらえている。

「どうかした? えっと、いらないとか、これ嫌いとか?」
「……」
「うーん」

 珍しく母からアクションがあったと思えば、この無反応。
 セイは片手間に火を止めて首をかしげる。
 包丁からは手を離さなかった。
 取られたら面倒かなと思ったからだ。

「成」
「……ん? うん」
「どうして倒れてたの」

 母子、初の会話である。
 セイの記憶ある限り、初の。
 はじめて聞く母の声は存外に落ち着いていた。

「今日はちょっと疲れてたから」
「どこにいってきたの」
「森。と、北町の廃墟と、駅前公園と、本町にもちょっと寄ったよ」
「……」

 母はゆっくりとまばたきして目を伏せる。
 かと思えば、おもむろに玄関へ歩み、置きっぱなしの荷物に手をかける。
 そうして、ダイニングテーブルに、とん、と、箱が置かれた。
 よく書類等をまとめるのに使われる透明な箱。

「あの子に渡して」
「あの子って」

 声はもう返らなかった。
 また座って寝始めた彼女を尻目に、セイは作業を再開する。
 深夜の静寂を極力守るようにしているうちに刻々と時間が過ぎる。
 食材を煮立てる傍ら、セイは箱を確認してみた。
 中身は数冊の本だ。
 セイには読めない、母の著作。
 ――あの子って誰だろう。
 わからないながら、箱を隅に置き直す。
 キッチンに戻る。
 後で、辞書でも引きながら眺めてみよう。
 それで心当たりがなければ、どうしようか。
 考えながら、頃合いを見て火を止める。
 揺り起こしてあつらえたスープを差し出すと、母は黙って食器を手に取った。
 息をついて、エプロンを外す。
 セイ自身も食卓に座りながら、片手間に箱を開いた。
 いちばん上の一冊をぱらぱらめくる。
 文面は相変わらず難しい。
 学術的な話が多いからだ。
 発達に伴う思考・認識の変遷だの、集団心理からの逸脱が引き起こす現象だの。

「……あ、れ」

 違和感に気づいたのは、奇妙に隔絶されたふだりの食事も終わる頃。
 セイはひとまず本を閉じて、無言の応酬のうちに食器を片付ける。
 洗い桶に流れる水を見つめ考える。
 ――おかしい、はずだ。
 記憶をたどる。
 なにかが食い違っている。
 なにか?
 いや、食い違っていない事柄の方が少ないのではないか。
 記憶は正しいだろうか。
 これまでの認識が正しくないという可能性は。
 そもそもこれまでの認識がどんなものだったか。
 おかしい。わからなくなっている。
 数分前までは確信的にわかっていたはずのことが、もうぜんぶ。
 ただ違和感だけがある。

 俺は、漢字が読めないんじゃないのか?

 落ち着け。
 自らに言い聞かせて、二枚だけの皿を洗う。
 原因は、わかっているのだ。
 先の気絶の原因でもある。
 今日とて、セイは、花に触れたのだ。
 二度目ともなれば多少は余裕が持てる、気がしたから。
 まだ、彼女に近づくことを諦められないから。

 水を止めて振り返る。
 食事を終えた母は、もう上着を羽織って玄関にいた。
 軽くなった鞄を拾い上げた彼女と、一瞬だけ目が合う。
 疲れきって、うつろで、他人行儀な目。

「おかあさんっ、」

 咄嗟に口をついて出た声が静寂を割いた。
 きん、と残響が耳鳴りを誘う。
 なぜだろう。
 こうやって、知りすぎると、なにもわからなくなるのだ。
 結論は、いつでも、目の前にしかない。
 過去も未来も、つねに不確かで、辻褄あわせに意味はない。
 たったいま知覚できるものの中にしか、正しいものは存在しない――
 それだけを理解した。
 直感があった。
 耳鳴りが、この夜が、床の温度が、告げている。
 母とは、これで最後の。

 セイはもとよりかけるべき言葉を持っていなかった。
 だから、ただ無難で、曖昧な言葉をひとつだけ吐いた。

「……気をつけてね」

 扉が開かれ、閉まった。


2019年3月5日

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