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Fictional forest
「像」

 午後8時過ぎ。
 ソノの家でツカサの作った夕飯をいただいた帰り、福居湖は湊宅の玄関前にいた。
 庭のほうから虫の歌う声がする。
 黙って、それを聞いている。
 秋風はこの数日のなかではいちばんやわらかくそよぐ。
 居心地が良かった。
 明日にかけてまた暑くなる、と別れ際にソノが言っていた。
 いまこの時間の心地よさは、貴重だ。

 ウミの体調はみるみるよくなっていた。
 悪夢のない夜を少し過ごしただけで、こんなに楽になるのかと驚いてしまう。
 少し、申し訳ないか、とも思う。
 この状況で、じぶんだけが救われていることには、違いないのだ。
 特にツカサとシヅキはおそらくまだ戦っている。
 ソノの様子はあまり変わりがないが、もとからそう穏やかではない。
 セイには会えていないから、どうだかわからないが。
 じぶんにできることは、やはりないのだろうか。
 考える。

 玄関脇の外灯に、ふらふらと蛾が寄ってくる。
 ウミの足元に落ちる光が、虫の羽ばたきに併せて不安定に形を変えた。
 揺らぐ影に視線を落とす。
 と、がちゃりと音をたてて扉が開いた。
 驚いた蛾が去っていく。
 影が消える。

「待たせた。これ」
「ありがとうございます」

 顔を出したツカサから、上着の入った袋を受け取る。
 このために、しばらくここで待っていたのだった。
 ウミは袋の中身を確認して、袋ごと鞄に押し込む。
 一段と重くなった鞄を持ち直して、ツカサに振り返る。
 相変わらず、顔色は芳しくない。

「団長。ちゃんと休んでくださいね、今日は」
「うん、ありがとう」
「あと、ご馳走さまでした」
「お粗末さま」
「それから、ひとつだけ」

 ふだんの笑みもなく言葉を返すツカサに、いまばかりはウミが笑みを向ける。
 わずかにツカサが目を見張った。
 そんなに珍しいか。そうかもしれない。
 なんて思いながら、言う。

「終わって、落ち着いたら、また秘密基地やってください」
「……もう、要らないんじゃなかったか」
「あなたに必要です」
「なんで」
「死ぬ気でやって、死なないんですから。やりたいことがなくなると思うんですよ」
「なんで、死なないって」

 言い切るの。
 そう続く前に察してウミはまた視線を足元の光に落とす。
 ふたりぶんの影が夜道に向かって延びている。

「ただの勘です」
「はは、心強いな」
「でも、普通に、大丈夫だと思いますけどね。この町は穴だらけだから」
「……穴」
「森に行くんでしょう。入り口は、学校か公園を選ぶと良いですよ。ひめきの子供、それ自体が穴だろうから」

 ツカサが、扉を押さえる手に力を込めた。
 光のかたちで、それを見ていた。

「どこまで見えてるの、ウミ」
「ええ、俺、やっとわかったんですけど。ぜんぶですよ。ぜんぶ見えてるみたいです」

 ウミは視線を上げる。みどりをとらえる。
 それは有り得なかったはずの色だ。
 あらためて気づくまでもなく、最初から、そう思っていた。
 知っていた。
 そうやって、あまりに自然に思考できていたから、気づくのが遅れた。
 悪夢を見なくなって、やっとわかった。
 この『勘』は――異常なものだ。

 推測だけ述べよう。
 あの悪夢は、記述だ。
 古今東西、万物の歴史の記述。
 それを幼少から毎夜、頭に流しこまれ続けているのだとしたら。
 知らぬ間に記憶し、それら事象のパターンを思考回路に蓄積していったら。
 思考による演算精度はどこまであがるのか。
 勘は、どこまでよくなりうるのか。
 そもそも何がそこにあったか知っているなら。
 それが何らかの拍子に思い出せるなら。
 何もかも見えてしまう、なんてことが、起きるのかもしれない。

 ただ、もう、悪夢が脳裏をちらつく生活は終わった。
 希望を言えば、このまま、ゆっくりと、何も見えないようになれたら。
 ウミにはそれがいちばんの幸福だ。

「安心してください。俺が見えるっていうのは、現実も、そうじゃないものもぜんぶですから。どれが正しいのか、俺にはわからないから」

 有り得なかった色にむかって言葉を吐いた。
 ここは有り得なかったことが有る世界だ。
 ウミにはわからない。
 じぶんが過去の少年を殺したのかどうかすら、いまだに判別できない。
 同じ時、同じ場所に有り得た、すべてが見えているから。

「ほんとうのことを見つけてください」

 一礼する。
 それじゃあ、とだけ言って、ウミはきびすを返した。
 しばらく行って、遠く後方で扉の閉まる音がした。
 外灯が消えた。
 いまのウミにわかるほんとうのことは、それだけだ。

 手持ちぶさたに携帯を開く。
 2009年9月19日。20時20分。
 長かったなと思う。
 セイが基地へやってきて、去っていくまでの一週間。
 いろいろなことが立て続けに起こりすぎた。
 立て続けに起きた出来事の皺寄せはすべてツカサへ向かった。
 あるいはその向こうにひそむ何かへ、か。
 その何かは、どうしたら思い出せるのだろう。
 考えながら、ふらふらと、普段は通らない道を選んで進んでゆく。

 道中、住宅街に埋もれそうなちいさな児童公園を見つける。
 ウミはあまり町の地理に通ずる方ではないから、その存在自体、はじめて知った。
 申し訳程度の遊具が、申し訳程度にカラフルに塗られている。
 一本だけの街灯のたもとに古びたベンチが置いてある。
 ――導かれるようにそこに腰を下ろした。
 傍らの茂みに早咲きのチョコレートコスモスが揺れている。
 夜の黒に、なお黒く、穴をあけている。

「あれ」

 と、覚えのある声が降った。
 上からだった。滑り台の傍に立つ槁の上から。
 咄嗟に見上げると、がさがさと物音がして葉が揺れる。
 人影は、木の枝から滑り台の頂上へ、軽く跳んで着地してみせる。
 薄い色の髪に葉をつけて振り返る。
 たしかに高橋成だった。

「なにしてんの福居」
「……高橋こそ」
「え、木登り」
「見りゃわかるよ……」

 なに食わぬ顔で滑り降りてきたセイがウミの隣に座る。

「いやーそろそろ帰ろうかと思ってさ」
「おまえ、帰ろうかと思ったら、木に登るの」
「楽しいじゃん」
「そうか……?」

 セイのようすにはなんら変わりがない。
 すべてが楽しそうにへらへら笑っているだけだ。
 もとよりそういう奴なんだろうな、と、ウミは息をつく。
 つくづく彼のことはわからない。

「高橋、……思い出したんだよな」
「あぁ。なんか悪いな、協力してくれるって言ったのに」
「しないで済むに越したことはないだろ」
「ならいいんだけど」
「でも……」
「ん?」
「団長、何があったんだ」

 すらすらと話していたセイがとたんに口を閉ざした。
 やっぱりな、と空をあおぐ。
 街灯にぼやかされた星空がしんとひろがっている。
 沈黙。
 星はちかちかとまたたく。
 あるのか、ないのかは、やはりわからない。

「うらやましいよ」

 真意の汲めないさらさらとした声で、セイがつぶやく。

「俺たぶん湊さんと同じところにいるのになあ」
「……」
「あのひとばっかり、ぜんぶ持ってくんだ。特別なんだよなあ。きみたちにも、世界にも、あのひとは」

 恨み言のようなかたちをしていた。
 ただ、その声にも、表情にも、なにも込められてはいなかった。
 こころを喪ったような声音が、淡々と続く。

「湊さんが来ちゃったらたぶんこれも終わりになるから。悪あがきだろうけど。もう少し時間が欲しかったんだ。俺にもなにかあってほしいんだ。ごめん、こんな理由で。湊さんには悪いと思ってる」
「……やっぱり、今回も、おまえのせいってこと?」
「そうだよ」
「結局……ぜんぶおまえのせいか」
「うん」

 セイは笑って頷いた。
 ウミは深く息をついて立ち上がる。
 座ったままのセイと目を合わせる。
 何物より印象的な強い緋色の目に、からっぽの心象が泳いでいる。

「ムカついたから、殴っていい」
「いいよ」
「そういうとこが嫌いだ……」
「へへ」
「なに笑ってんの」
「福居だけは俺をいないもの扱いしないから」

 ありがとう、と言葉が続いた。
 微笑みは途絶えない。
 ウミは握った手をほどいて、鞄の肩紐をつかむ。
 刹那に沸き上がった苛立ちが、今度は呆れに変わっていた。
 話にならない。
 ベンチに彼を残して、ウミはそそくさと出口へ向かう。

「これ以上、団長になにかしたら、マジで殴るから……グーじゃなくて本の背で」
「痛そー。じゃ、きいつけて帰れよ」

 軽い声を背に夜道へ歩み出る。
 これからも本は持ち歩こう、とだけ、決意した。 


2019年3月1日

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